サクッ!と猟奇歌

過去ログ5

水難の夢削除
投稿日 2006/08/19 (土) 20:25 投稿者 小田牧央


 薄暮だった。連絡船の上から澪を眺めていた。年に一度、母娘二人きりの小旅行。楽しみにしていた一日も、終わりを迎えつつあった。
 日盛りの下を歩き続けた四肢が燃え殻のように熱い。来年には中学生になる娘と手をつなぐこともなく、背中を追いながら歩いた。長く伸びた手足に歳月の過ぎる早さを思い、安堵と寂しさの入り混じった気持ちがした。
 泡波の生滅に時を忘れ、意識が朦朧としていた。残照に航跡が鮮やかな朱に染まっている。疲れがでたのだろう。鉄柵をつかむ手の甲に波飛沫がかかるたび、どこか遠くから呼び起こされるような感じがした。
 自分がなにをしてきたのか、自分はなぜいまここにいるのか、夕闇の中で見失いそうな気がした。瞼を閉じ、深く息を吸った。潮の香りが胸に広がり、波の律動を足下に感じる。長く息を吐きながら目を見開く。
 離れた場所に、娘が立っていた。両腕を鉄柵にかけ、まじまじと遠くをみつめている。なにかに魅入られたように、瞳を凝らしている。
 既視感があった。今すぐにでも駆け寄り、娘の肩を押さえたくなった。
(そうだ、これは……)
 娘の肩を押さえつけ、動きを封じたくなった。
(……夢と同じだ)
 ぼやけていた記憶の海に、なにかが揺らめきながら浮かび上がってくる。娘が、鉄柵を乗り越え、泡波に身を投じる――そんな光景。
 小さく、苦笑する。そうだ、今朝、確かにそんな悪夢をみた。どうして今まで忘れていたのだろう。自分はよっぽど酷暑と疲労に参っているらしい。どうして今の今まで思い出せなかったのだろう。けっきょく自分はまだ、娘の成長を実感できていないということか。幼児ではあるまいし、どうしてあの娘がそんなことをするだろう。
 微笑みを浮かべながら、娘の背中へ歩み寄ろうとした。今日一日を振り返ろう、楽しかった旅のことを語ろう、そんなことを思った。
 右手に、違和感があった。
 なにか握っている。なにか小さなものを。
 顔の前に、開いた右手を近付けてみる。安物のライターが、そこにあった。プラスチックの中で液体が揺れる。
 意識の空白があった。ざわめきが聞こえた。顔を上げると、さっきまで自分達と同じように波を眺めていたはずの人々が、陸のほうを指さし口々に声をあげている。
「……おかあさん」
 震える声があった。鉄柵の前に立つ娘が、怯えた目でこっちを見ていた。大きな黒い瞳に、赤い光がチラチラと揺れている。
 赤い光? 私はようやく、そちらを見た。娘が恐怖しながらみつめていたもの、周囲の人々がざわめきながらみつめていたものを。
 炎があった。山陰の集落を、長く、長く、竜のような炎が覆っていた。血のように赤黒い夕焼け空に、巨大な黒煙が幾筋も吸い込まれていく。黒と赤の影絵劇。逃げまどう人々の小さな姿が、美しい炎に照らされていた。
 なにをしてきたのだろう。私は今日、なにをしてきたのだろう。ライターを強く握りしめる。誰彼の闇に視覚が鈍る。代わりに敏感さの増した肌が、大気の動きを感じた。火炎が、風を呼んでいる。
「大丈夫」
 歩き出す。娘のほうへ歩き出す。深海から、記憶の断片が次々と浮かび上がる。いつの間にか消えていた背中。道ばたで拾ったライターをおもちゃにしていた娘。思いがけず大きくなった炎を前に、為すすべもなく立ち尽くし私を見上げていた、あの幼い表情。
「……大丈夫だから」
 右手を振り上げる。鉄柵を越えて放物線を描きながら、ライターが赤黒い波に消えた。私は娘の背後に立ち、その小さな震える肩を抱く。炎が招いた海風に娘の黒髪が乱れ、私の腕に幾重にも絡み付いた。



ループ・バック削除
投稿日 2006/07/15 (土) 19:43 投稿者 小田牧央


 湿度が高いと、記憶が不鮮明になる。後になって、あれはなんだったんだろうと思うことがある。出来事の順番がおかしかったり、辻褄が合わなかったり、現実と夢と空想がごちゃ混ぜになっていたりする。
 なかでも不思議なのは記憶のループだ。ぼんやりしていたり、睡眠不足がひどいときによく起こる。同じことが繰り返し起こって、いつまでも続く。それがいつ終わったのかは記憶にない。
 例えば昼下がり、出張先から帰るためバスに乗る。灼熱の光線にワイシャツが汗で透けるほどだったのが、車内冷房で落ち着いてくる。座席に深く腰掛け振動に身を任せていると、街のざわめきが子守歌になる。眠気が込み上げてきて、膝のアタッシュケースに寄りかかるようにして目を閉じる。
 不意に、強い光が瞼を打つ。フラッシュのようにパッ、パッと明滅する光。なんだろうと思いながら目を開けると、市街電車の窓がいくつも通り過ぎていく。並走する電車の窓ひとつひとつが光を反射し、それがバスの中に次々と飛び込んでくる。
 アタッシュケースを抱えたまま、ぼんやりとそれをみつめる。バスの振動と同期するようにフラッシュの連続がいつまでも続く。まばゆい明滅に暗示をかけられたように意識がとろけていくのを感じながら、やがてゆらゆらと電車の長さに対する疑念が浮かび上がってくる。
 こういう体験を後になって思い出すとき、どうしても記憶がうまくつながらない。目的の停留所でバスを降りたことは思い出せるのに、電車が走り去った光景は目に浮かばない。当たり前に考えれば数秒の出来事だったはずなのに、まるで時の流れがねじれてしまったように感じる。
 でも、これくらい些細なら不都合はない。困るのは繰り返しが、もっとありえないような形で起きたとき。物理的にありえないことの無限反復が起きたときのほうが本当の意味で困るし、怖い。
 例えば明け方に目が覚めて、キッチンに降りる。昨夜は熱帯夜で眠れなかった。早朝のキッチンは薄明るく、空気は生暖かいが寝室よりは涼しい。喉の渇きを癒そうと冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをとりだす。喉に注ぎ込んでいるとリモコンが目に留まり、ふと興味を持つ。こんな時間帯にはどんな番組をやっているんだろう。
 ペットボトルを冷蔵庫に戻し(パタン、という柔らかい音がしたのを覚えている)、リモコンを手にしてスイッチを入れる。でも、ブラウン管は暗いまま。電池切れかなと思ってリモコンの裏蓋を開けると赤い単三が二本並んでいる。一本とりだすと、見えない奥のほうにあった単三乾電池がツーッと滑ってきてトンと収まる。振り出しに戻ったみたいに、赤い単三が二本。
 指を伸ばし、滑り落ちてきた乾電池に指をかける。人差し指の先に冷たい金属の感触。爪をひっかけ手前に引く。ツーッと滑ってくる乾電池。トン。ふりだしに戻る。
 ゆっくりと腕をねじる。裏蓋のあるほうを、下に向ける。重力に引かれて、二本の乾電池が同時に落ちる。テーブルの上でカン、カカン、カンと堅い音をたてる。少しの間があって、次の二本。最初に落ちた単三がテーブルの上を転がっていく……キュロキュロキュロ……また二本の乾電池が落下する。スーッ、トン、カン、カカン、カン、キュロキュロキュロ……。
 そのコンビニエンスストアのアルバイト店員とは顔なじみだったから、たまたま話を聞くことができた。僕はパジャマ姿に裸足、幽霊でも見たように青白い顔をして、無言のままだったそうだ。
 話を聞いた後で記憶を探ってみたけれど、なにも思い出せなかった。コンビニで、棚にあった単三乾電池をすべて買い占めて帰ったこと。キッチンの床にそれをばらまいたこと。頭が痛くなるほど悩んでも、どちらの記憶も蘇らなかった。



夜の底にたどりつく削除
投稿日 2006/06/17 (土) 19:59 投稿者 小田牧央


 雨の中を歩くのは、苦手だ。傘を差していても、靴下や裾が濡れてくる。空気が重いし、風景は灰色だ。運悪く、水溜まりに突っ込んだ車に飛沫を跳ね上げられでもしたら、最悪な気分になる。
 夜道は尚更だ。傘で視界が狭まっている上に暗さまで加わると、夢遊病みたいになる。細かな雨飛沫を頬に感じ、傘を打つ雨音に耳はふさがれ、右足も左足も勝手に動いている。傘の骨の先端から雨粒が落ちて、白い輝線が走る。水溜まりに細かな波紋が浮かんでは消える。雨の中にいるというより、自分が雨になってしまった気持ちになってくる。
 だから、その晩は気鬱だった。雨、夜、左右に広がる水田。まっすぐ伸びるアスファルトの細道、間隔を大きく空けて並ぶ外灯。遠く幻のようにとぼしい集落の明かりに目を凝らすたび、それが少しも近くならないのに溜息をついた。
 これでも雨足は弱まっている。駅の待合室にあるテレビでは、豪雨警報が報道されていた。傘を打つ音は小降りに近くなっているから、やがて止むだろう。しかし、こんな郊外の寂しい夜道を、雨のなか歩くのはつらい。通りがかる人も車もない。執拗に雨音だけが追いかけてくる。
(――おや?)
 立ち止まる。足下に、違和感を感じた。大きな水溜まりがあるらしいが、どうも様子が違う。外灯から離れているため、暗くてよくわからない。
 マグライトを点ける。光の輪が落ちた。アスファルトの上を、流れが走る。足の甲が隠れるくらいの浅い流れ。左右にマグライトの光を向けてみる。この辺りは道路が低く、水田と道路の高さがほぼ同じだ。青々とした稲の根本のほうを照らすと、普段より水に浸かっている。
 雨で水位が増したのだろう。道路が冠水している。まずいことに、蛍光灯の寿命でも来たのか外灯がひとつ暗くなっている。先のほうを照らしても、奥のほうがどれだけ深くなっているのかわからない。ただ、ふたつ先の外灯は無事に光を放っている。ひびわれたアスファルトが見える。どうやらあそこまで行けば大丈夫のようだ。
 このくらいの深さなら、問題ない。マグライトを消し、靴先を流れに踏み入れる。せめて靴下を脱ごうかとも思ったが、既にずぶ濡れだから意味がない。足を踏み入れるたび、ぽちゃん、ぽちゃんと水音が鳴った。ぼんやり、幼い頃のことを思い出す。神社の裏にある川でザリガニを獲った。水草が生えた石に足をのせると、くすぐったい感触がした。学校でプール掃除をしたときも、独特な感じがした。黒板みたいに、皮膚に貼り付く感じ。それが、コースを示す黒いラインのところはツルッとしてる。足の裏は手の平と比べて物に触る機会が少ないから、かえって記憶が鮮明になるのかもしれない。
 靴下越しに、なにかを感じた。いつの間にか、流れが深くなっている。背筋が冷たくなった。物思いにふけるうちに、注意がおろそかになっていた。膝までとはいかないが、握り拳みっつくらいの深さはあるだろうか。
 足下をみつめる。目を凝らしてみる。またひとつ、なにかが過ぎった。暗くてよくわからないが、流れを影が過ぎるのが確かに見えた。素早い動きだ。
 マグライトを灯す。色褪せたアスファルトが照らされる。オレンジ色の輝きがあった。ひらひらと舞い踊る、それは金魚だった。流れに逆らい泳いでいる。闇の中に浮かぶ光の輪、透明な水の中にいる金魚。長い尾ひれのゆらめき。小さく丸めた口先からプクリと泡粒が浮かび上がる。
 頭の隅で、祭囃子が聞こえた気がした。浴衣を着て金魚すくいをやった。ビニール袋の水の中で泳ぐ金魚。帰り道、川に流した。あの金魚は無事に大きくなっただろうか。
 グキョ、という音がした。蛙の鳴き声のような音。水田のほうを照らす。青々とした稲、水に浸かり頭を垂れている稲、その根本、異質な色があった。小さな丸いもの、赤や青、派手な原色の入り混じったスーパーボール。ひとつだけではない、大量に流れてくる。押し合いへし合いするゴムがこすれて、グキョ、グキョ、と音を立てる。ラメがマグライトの光を反射してキラキラ輝く。生き物のようにそれらはぶつかりあいながら押し寄せてくる。
 マグライトを消す。顔を上げ、遥か先を望む。外灯の明かりまではまだ遠い。早く行かないと。早くしないと捕まってしまう。
(――なにに?)
 わからない。
 足を進める。水を蹴る。水飛沫が飛び散る。息を吐く。湿っぽい空気を吸う。泣きたくなってくる。全身が、ずぶ濡れになっている。雨と汗で濡れそぼっている。足首に水の流れを感じる。それは少しずつ浅くなってくる。雨音が弱まっている。早く、早く、ここから逃げよう。雨に捕まる前に逃げよう。雨は嫌いだ。こんな夜道はもう嫌だ。
 首筋に雨粒が飛び込む。傘を持つ手が痺れている。水の抵抗が、不意に消えた。パチャ、パチャという軽い音も聞こえなくなり、やがて外灯の下にたどりついた。ひびが網の目のように入ったアスファルト。立ち止まり、息を整える。
 それから、気付いた。雨音が聞こえない。傘を下げ、手の平を上に向けてみる。なにも感じなかった。いつの間にか、止んだらしい。
 振り返ってみる。思わず、息を呑んだ。星がでている。雨雲は消え失せ、美しい星空が広がっていた。冠水した道路が、鏡のように光の宝石を映している。まるで大地を離れ、宇宙をさまよっている気がした。
 ああ、そうだ。この光景は、以前も見たことがある。あのときは、黒く濡れたアスファルトのひび割れが、まるで鏡のひび割れのように見えて。
 頭の上で外灯が、明滅してかと思うと消えた。足下で小さな音がしても、逃げる気にはなれなかった。パキパキという音が広がっていく。足首がなにか柔らかいものにめりこんでいく。暗闇の中、いくつもの記憶が目の前で蘇っては消えていくのを、ぼんやりとみていた。



ビビブブゥン削除
投稿日 2006/05/21 (日) 17:11 投稿者 小田牧央


 遊歩道の緑がキラキラしてて、木陰にいるとシンと涼しくて、そっか、これが五月晴れっていうんだ、気持ちが良くてウキウキして、息を深く吸い込むと胸の奥がスーッとなって元気が湧いてどんどん歩いてしまう。
 まぶしい。青空に浮かぶ雲がくっきりと白くて立体的で、いくつも組み合わさって重なり合ってパノラマみたいに広がりがあって心が遠くに吸い込まれてく。きっと今日は、お日様が沈まない、もう夕暮れなんて来ない。ずっとずっと永遠にこんな昼下がりが続くんだ。そんなメルヘンなこと考えたりする。
 だから、眠くなった。すっごく遠回りしてアパートに帰って、汗かいてたからシャワー浴びてラフな服に着替えて、ノートパソコン膝にのせてメールチェックしてネット眺めてたら、なんか凄く眠くなってきた。頭がポワーッてなって、畳の上に仰向けに寝転んで、ぼんやり天井眺めた。大学に受かって、この春に越してきたばかり。最初はとまどったけど、だんだん慣れてきた。落ち着ける場所になった。ここは自分の巣なんだって、やっと実感湧いてきた。こわいこともあったけど、大丈夫、きっとうまくやってける。
 目を閉じる。とろんって、なった。窓から射し込む陽射しが膝の下にあたってるのがわかる。日陰のとこは肌寒いのに、足下だけ暖かい。素敵。ホントに素敵な日。
 ――話し声で、目が覚めた。
 タケコさんだ。
 ああ、すごく幸せそうに笑ってる。表の通りから聞こえてくる。こわい。私はあの人がこわい。
 タケコさんが誰なのか、私は知らない。ただの他人。すれ違うだけの人。大きな声で、楽しそうに携帯電話で誰かとおしゃべりしながらアパートの前を通り過ぎる、ただそれだけの人。それは夜、たいてい深夜のことで、二階にいる私の部屋まで話し声が聞こえてくる。聞くつもりはないけど、布団の中にいる私はうつらうつらしていて会話の内容を途切れ途切れに聞いてしまう。あの人の名前もおしゃべりから漏れ聞こえただけで、面と向かって会ったことも話したこともない。
 でも、見てしまった。あの晩、私は少し疲れてたと思う。いつもなら気にならないタケコさんのおしゃべりが、どうしても気になった。いつもいつもどうして夜中にそんな大きな声で話してるの、ここは住宅街なんです迷惑だと思いませんか。そういうことを一度きちんと言ってあげないとダメだと思った。いつもの私は凄く寝付きがいいし物音も気にならない。何度か興味半分で窓を細く開けてタケコさんがどんな人なのか覗いたことはあった。スーツ姿で、黒い髪が肩胛骨の下くらいまであって、おしとやかそうな凄くお嬢さんっぽい人だったからビックリした。色白で、おしゃべりしてる顔が凄く嬉しそうで幸せそうで、だから声は少し大きいけど許してあげてもいいかななんて思ってた。
 それなのにあの夜は変だった。私はなかなか寝付けなくて、やっと頭がボーッとしてきたかなと思ってたらタケコさんの声に起こされた。凄くカッとなって起き上がって明かりを点けた。カーテンを思いっきり引いて窓を開けて、大声だしてやれって深く息を吸った。
 そして、私は見た。
 それまで、外灯とか、近所の家の門灯でしか、タケコさんを見たことなかった。だから、気付かなかった。あると思ってたものが、無いなんて、思いもしなかった。
 あの顔。立ち止まって、大きく瞼を広げて、こっちを見上げた顔。暗闇に浮かび上がった白い顔。
 タケコさんは、左手を顔の横に添えていた。
 なにも握っていない左手を。
 空っぽの手。指先を、まるで透明な携帯電話を握ってるみたいに曲げてた。
 私は、感じた。胸の中で膨らんでた言葉が、どっかに消えてく。シューって、しぼんでく。窓を閉めた。カーテンを引いた。うずくまって、背中がガタガタ震えてくるのを必死にこらえた。
 あの夜から、私はタケコさんを見たことがない。相変わらず、真夜中になるとタケコさんは「携帯電話で」幸せそうにおしゃべりしながらアパートの前を通り過ぎる。でも、私は絶対に表を覗いたりなんかしない。きっとアレは見間違いだったんだ、本当はちゃんと持ってたんだって思いたいけどこわくて外を覗けない。
 ――表からの話し声が近付いてくる。畳の上に寝転んで目を閉じたまま、私はどうしてこんな時間にタケコさんが来るのか考えてた。いつも夜にしか来なかったのに、どうして今日はこんな時間なんだろう。ガラッと窓の開く音がした。隣の部屋からだ。思わずハッとなった。隣の青山さんとは顔なじみだ。ショートカットの青山さんは私と大学は同じだけど学部が違って理系でちょっとかっこいいボーイッシュな感じの人で、ときどき立ち話したり実家から仕送りがあるとお裾分けしあったりしてる。私と同じでやっぱりタケコさんのおしゃべりがうるさいみたいで、この間もプンプン怒りながら青山さんは「無神経な人、きらい。チイちゃんもイヤでしょ? 一緒にコラーッて叫ぼうよ」なんて話してた。
 そのことを思い出して、まさかと思ってたら青山さんの大声がした。凄い勢いで怒りの弾丸がビュンビュン飛んでく。びっくりした。いつもクールで大人びた感じなのに人が違ったみたいにこわい声してる。汚い言葉をいくつも使って狂ったみたいに叫んで空気がビリビリ震えて、叱られてるの私じゃないのに泣きたくなってきた。あれは本当に青山さんなの? 誰か声のそっくり同じ人がいるの?
 急に、静かになった。
 なにも聞こえなくなった。
 青山さんの声もタケコさんの声も聞こえない。
 小さく、足音が聞こえた。タケコさんのハイヒールの音。なにも言わずに行っちゃうの? あれ、でも、なんだか聞こえ方が違う。方向が違う。そっちは、路地のほう。このアパートの階段がある路地のほう。
 カン、カン、とリズミカルな音が聞こえてきた。階段を上る音。少し早足。怒ってるみたいな早足。次は通路。カッ、カッ。カッ、カッ。ハイヒールが音を立てて私の部屋の前を通り過ぎる。歩調を緩めず、リズミカルに、なにをしようとしてるのかわかってるみたいに。そして、ストップ。青山さんの部屋の前で停止。
 こわい気持ちが、ざわざわ、お腹の底から胸元に這い上がってくる。
 ピンポーン。玄関チャイムの音。ダン、ダン、青山さんが部屋を横切る足音。やめて、やめてやめて! ドアを開けちゃダメ、タケコさんと会っちゃダメ!
 そのときになって気付いた。
 瞼が開かない。
 頭を持ち上げようとした。でも首が動かない。あれ、と思って指先に力を込めてみる。膝を曲げようとしてみる。でもダメ、麻痺したみたいに感覚がない。自分の身体じゃないみたい。金縛りだ。
 ウソ、どうして。焦る私の耳に、ドアの開く音が飛び込んでくる。爆発したみたいに、罵り合う声がした。凄い勢いでキチガイとか死ねとかイヤな言葉が響いてくる。早く起きて二人をとめないと。でも瞼が開かない。焦れば焦るほど身体の内側と外側が離れてく。
 ドン、と強い音がした。壁になにかぶつかった音。続けて部屋の奥へ踏み込む足音、ダダン、と強い振動。甲高い悲鳴がした。ガシャンとなにか割れた。獣のような呻き声、激しく暴れる音。
 声が止んだ。
 物音もしなくなった。
 凄く静かな、静かな時間。起き上がることをあきらめ、耳をそばだてる。じっと集中する。青山さん、どうしたの? どうなったの?
 衣擦れが、聞こえた気がした。人の気配。動く人の気配。足音。凄く小さな、ゆっくりした足音。これは青山さん? それとも、タケコさんのハイヒール? 通路を、誰かが近付いてくる。ゆっくり、ゆっくり、足音を忍ばせて近付いてくる。
 額を汗が流れてく。私は喉の奥に力を込める。助けて! 動かない唇。こんんなに心臓は動いてるのに! こんなに早く鼓動してるのに!
 ピン、ポーン。
 玄関チャイムの音に、私は跳ね起きた。
 金縛りが解けた。
 六畳間、上半身を起こした私、夕闇に塗りつぶされた暗い部屋。
 夢? 夢だったの?
 フラフラと頭を揺らしながら、畳に手をついて起き上がる。薄闇に包まれて輪郭が曖昧。ああ、そうだよ、タケコさんが昼に来るわけないじゃない。私、寝ちゃったんだ。眠ってる間に日が暮れて、タケコさんが来て……それで?
 ピン、ポーン。二回目のチャイム。私はキッチンを通り過ぎる。クリーム色の玄関扉。そうだ、青山さんが窓を開けて、タケコさんを怒鳴って、やだなあ、変に刺激しちゃダメだよ。逆恨みされたりしたらイヤじゃない。だから、あんなことに……。
 あんなことって?
 立ち止まる。ドアノブに差し伸ばした腕を、とめる。あんなことって? タケコさんが来て、タケコさんが階段を、タケコさんが青山さんの部屋で。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポピンポピンピピピピピ……連打されるチャイム。一歩、後ずさる。頭の中でなにか回転してる。頭の中で回転するなにかが私を後ろに引きずる。ダメだ、ダメだ、早く逃げよう!
 ダン、と叩く音。玄関扉を向こう側から叩く音。ダン、ダン、ダン。何度も拳を打ち付ける音。
「チイちゃん!」
 青山さんの声。
「寝てるの? チイちゃん! 早く、大変なの! タケコさんとケンカになったの! あの人、火をつけたの! 私の部屋に火をつけたのよ! 早く逃げないと! チイちゃん! チイちゃん!」
 胸から重い空気が逃げてくのがわかった。青山さんだ。青山さんだ。よかった。ホントによかった。泣き出しそうになりながら私は腕を伸ばす。ドアノブのつまみをまわして、カチャンと音を立てながら鍵を外す。ドアを開ける。
 微笑む顔があった。薄暗がりに、タケコさんが立っていた。白い頬が血飛沫で濡れてる。
「チイちゃん! チイちゃん!」
 左手。顔の横にかざした左手。空っぽの左手が、ビビブブゥンと振動して青山さんの声を発した。



さようならの日削除
投稿日 2006/04/16 (日) 19:30 投稿者 小田牧央


 春になると僕は同じ夢をみる。それは夕暮れの高速道路から始まる。ハンドルを握りしめ、フロントガラスの向こうに目を凝らし、無限に連なるオレンジ色のライトに惑わされながらブレーキペダルは右足だったか左足だったか思い悩んでいる。現実にはペーパードライバーの僕が思い切って爪先に力を入れてみるとそれはアクセルで、急に加速した車体はガードレールを突き破り、朱一色のなにもない空間に躍り出る。無重力の恐怖にふるえながら僕はゆっくりと意識の明度を上げていく。今年も始まったなと思いながら目が覚める。
 車はダメだ。列車に乗ろう。僕は車窓から過ぎゆく夜景を眺めている。どこかの湖なのか黒い水面が広がり、遠く対岸に民家の明かりが点々と連なっている。まばゆくライトを灯したモーターボートが仄白く波を立てながら遠ざかる。不意に僕は違和感を感じ手の平を広げる。手の平の真ん中に白い石のかけらのようなものが転がっている。なんだろう、これは。なにか動物の骨のようだけど。
 通路に人影が立ち止まる。見上げると黒い礼服を着た男が立っている。なんだ、お前もいたのか。そう声をかけてきた相手の顔は黒い霧がかかっていて誰だかわからない。小学校のときの同級生だ。そんな直感だけがなぜかひらめいて僕は破顔しながら久し振りだねと応える。お前も葬式にでるの? そう問いかけながら僕は自分も喪服を着ていることに初めて気付く。葬式? 誰のだろう? 線香の香りにくるまれながら、僕はゆっくりと目を覚ます。
 列車は駅に到着したのだろう。そうでなければこの道を歩いてるはずがない。工場跡地と線路に挟まれた細く長い路地を僕は母校目指して歩いていく。真夜中の路地は明かりひとつ無くて足下が覚束ない。遠くにラブホテルのネオンが輝いている。ピンクと水色のそれは宙に浮かんでいるように見える。左右から聞こえてくる話し声のどちらに意識を集中させようか悩みながら歩いていると、まだ火の灯っている煙草が黒いアスファルトの上に落ちていて、炎の橙色が網膜に滲んで美しい。キー坊はどうしたんだ。誰かが声をあげて僕は耳をふさぐ。お願い、まだ目覚めたくないんだ。
 僕達は夜の校舎に忍び込む。金属バットや包丁を手にしたクラスメート達が階段をのぼる。遠くから救急車のサイレンが響いてくる。三階に上がると僕はかつての自分達がいた教室へと歩いていく。キー坊はどこに行ったんだろう。こんな悪いことは、いつだっていちばんに参加してたのに。教室の扉を開けると会議でもするみたいに机と椅子が円形に並んでいる。机と椅子が取り囲む床には血と肉片が散らばっている。飛び散っている短く白い毛からそれは兎だと気付く。長い耳と黒い眼球が福笑いのように並べられている。
 どうして誰も来ないんだろう。あんなに騒いでいたのに、みんなどこにいったんだろう。窓の外が明るいのに気付いて僕は窓辺に歩み寄る。朝焼けの空に白く乾いた校庭が照らされている。校庭いっぱいに巨大な時計の文字盤が描かれている。複雑な蔓草模様に縁取られた文字盤の真ん中に、ぽつんと立っている人影がある。体操服姿の人影が僕を見上げる。遅かったね。あんなに遠いのにキー坊のつぶやきは確かに僕の耳に届いた。長く伸びたキー坊の影が時計の針のようにカチリと動いて、ギリシャ数字の十二を指す。
 そうだ。僕達は約束したんだ。卒業式の晩、校舎に忍び込んだ僕らは、校舎裏の小屋から兎を盗みだして教室で切り刻んだ。三十二人のクラスメート、三十二に分割した骨を、一人がひとつずつ持ち帰った。いつか集まろう。いつかまた、ここに来よう。真夜中の教室でそれを組み立てれば、僕らと一緒に卒業できなかったキー坊がきっと蘇る。
 けれどそれは夢の中で、僕はそれがどこまで嘘なのか本当なのか思い出せないまま泣き出している。朝陽の射し込む教室の片隅にうずくまったまま、僕は過ぎゆく春を惜しんでいる。



来迎削除
投稿日 2006/03/19 (日) 20:59 投稿者 小田牧央


 誰もなかった。その人の最期を看取る者は誰もいなかった。家族も親族も、友人も知人も。病棟内の同じ入院患者にさえ親しい人はいなかった。
 高窓の磨りガラスに枝影が踊る。膨らんだ芽をつけた枝々が春一番に揺さぶられ、寝台の白いシーツに落ちてきた木漏れ日が明滅を繰り返している。穏やかな寝息が聞こえる。昨夜から続いていた高熱が嘘のように引き、今は穏やかに眠っている。
 透き通る白髪に染みの浮いた頬、紛れもない老人の寝顔がときおり幼児のような表情に変わる。私は強く瞼を閉じ、眠気を追い払おうと努める。徹夜で蓄積した疲労に頭頂部が痺れる。けれどそのたびにこの人を、後半生を孤独に過ごしたこの人を、一人では逝かせまいとする思いが強く胸に湧き上がり、固いパイプ椅子の上で背筋を正す。
 不意に、老人の瞼が開いた。
 木漏れ日は彼の顔までは届かない。薄暗がりに隠れた顔、幾重もの皺から、濡れた黒い瞳が細く覗いた。
 おはようございます、私は小声でつぶやく。しかし老人は、まるで自分がどこにいるのかを忘れたかのように軽く首を動かし、左右を見渡した。身を起こすことはしなかった。したくとも、できなかっただろう。そして彼は私をみつめ、ゆっくりと口を開いた。
 先生は、黒い象を見たことがありますか。
 なにを言われたのか、俄には理解できなかった。口ごもる私から、彼は視線を逸らさない。答えを待っている、そんな表情をしていた。
 鼻の長い象ですか。私の問いに、彼は小さくうなずいた。
 黒い象――いいえ、ありません。普通の、灰色の象しか。
 緊張が解けたように、彼は視線を逸らし、天井をみつめる。遠く、天井よりもずっと高い、どこか遠くをみつめる目だった。それから、ゆっくりと唇を開いた。
 私は、見たことがあります。それも、二度。いま、急にそのことを思い出したのです。
 初めがいつなのか、思い出せません。まだとても幼い頃、物心つくかつかない頃です。祖母に手を引かれて動物園に行きました。南から来た黄金色の毛をした小猿、檻の向こうを貴人のように行き来する孔雀、虎の滑らかな筋肉の動きに麒麟の物憂げな瞳。物珍しさに心躍らせ歓声をあげながら、はしゃぎ歩いた先にあの象舎がありました。
 そこは、他の檻とは少し違う雰囲気でした。四方を分厚いコンクリートで覆われています。先程まで響いていた動物達の様々な唸りや囀りが遠ざかり、急にひっそりとなりました。薄暗い空間に、深い堀をへだてて、ふたつの巨体がたたずんでいます。灰色の、動かない象。我知らず祖母の手を握りしめました。二頭の象のその間、暗がりのいちだんと深い闇の中に、それは本尊のように立っていました。
 今思えば、私はあの日、様々な珍しい動物に触れることで、飼い慣らされた犬猫とは違う濃厚な獣の本性を初めて経験したのです。しかし、あの象舎で感じたものは、更に異なるなにかでした。家畜とも禽獣ともかけ離れた異質ななにか、畏怖すべきなにかでした。
 後年、思い出話の折りに訊ねてみたことがありましたが、祖母はその黒い象のことを覚えていませんでした。気付かなかったのか、忘れているのか、それともあえて、見なかったふりをしたのか。今となってはわかりません。その頃にはもう病の兆候が現れていましたから、祖母が私のみたものをあえて否定したとしてもおかしくはなかったのです。
 二度目は中学生のときでした。他県に住む母方の伯父が亡くなり、一家総出で通夜に参列しました。
 喉の渇きを覚え、水を飲もうと席を立ちました。台所へ向かうつもりでした。母の実家は素封家で、板敷きの廊下が迷路のように長く複雑に連なっています。幼い頃に泊まった覚えがあり、かえって油断しました。あれだけ親類縁者で賑わっていた声が遠ざかり、気付くと一人きりでした。長い縁側を、大硝子の嵌った戸が足下から天井までぴったりと閉ざしていました。昼は花々が咲き誇り緑輝いていた庭園も、夜は闇に包まれ愛想がありません。小池に注ぎ込む水の流れが響くばかりです。
 フト、気配を感じました。
 なにかが動いている。枯れ枝の踏み折れる音、葉を触れこするざわめき、遠く雑木林から、それは聞こえてきた気がしました。
 逃げ出したい、気付かなかったことにしたい。駆け巡るそんな思いとは裏腹に、私は立ち止まり、硝子戸に顔を近付け、目を凝らしました。影絵となった木々の隙間、塗りつぶされた闇の中に尚一層色濃く闇の動きを感じました。聞こえない音を聞き、見えない色を見るような、奇妙な感じ。林の向こう、逃げ出すように飛び立つ小鳥の影がありました。一羽、二羽、そして数え切れないほどの群れ。羽音が遠ざかり静寂が蘇る頃、思い出したようにザワリと気配が揺らぎました。雑木林から現れたその姿、母屋からの窓明かりに巨体がほのかに照らされます。わずかに垂れ下がる大きな耳、老人のような瞳、巨体の黒い肌をびっしりとエジプトの象形文字のような紋様が埋め尽くしているのを見た瞬間、私は悲鳴をあげて転げるように廊下を逃げ去りました……。
 そこまで語ると、喉が詰まったのか老人は咳き込んだ。苦しそうに顔を歪め、粗く息を繰り返すと、やがて落ち着いたのか瞼を細めた。しかし次の瞬間、きょろんと瞳が横に逸れ、そしてすぐに首を捻ると、瞼を見開いた。なにをみつめている。なにか、私の背後にあるなにかを。
 パイプ椅子の上で身を捻らせ、振り返ってみた。反射的な行動で、なにも考える暇は無かった。閉ざしていたはずの病室の扉が細く開き、光溢れる廊下の様子が覗けた。
 それは最初、犬のように思えた。しかし犬にしては寸詰まりで、なにより足が太すぎる。毛のない、渋皮のような肌をしたそれが、小さな象だとわかるのにしばらくかかった。垂れ下がった耳、長い鼻。私の膝の高さまでしかないその黒い象は、ゆっくりとした足取りで廊下を横切り見えなくなった。
 鼻を鳴らす音がした。それは、寝台のほうからだった。振り返ると、老人が上目遣いに私をみつめ、喉をくっくとひくつかせていた。それから、耐えきれないように吹き出すと、大声で高笑いをあげた。連られて私は頬に笑みを滲ませた。わかったような、わからないような笑いをヒクヒクと唇の端に浮かべるうち、老人の口角から泡が垂れているのに気付いた。胸元を押さえ、起き上がれないことを悔しがるように全身を揺らし寝台がギシギシときしんだ。のたうちながら老人は全身で哄笑をあげ続け、やがて糸が切れたようにフツリと声が止んだ。
 私はまだ、笑みを浮かべていたように思う。冷笑しながら脈をとった。もう、わかっていた。瞼を見開いたまま老人は歪んだ表情で息を引き取っていた。



冷たい海削除
投稿日 2006/02/10 (金) 22:54 投稿者 小田牧央


 あれがひどくなったのは夫を亡くした二年後、俳句の集まりで伊豆を旅行したときのことでした。旅館に泊まり、畳の部屋で柔らかな布団にくるまり眠り、障子越しに射し込む朝陽のまばゆさに目を覚ましたとき、私は自分がどこにいるのかわからなくなっていたのです。
 あのときのとまどいはよく覚えています。寝乱れた浴衣を直しながら、そわそわと部屋を見渡しました。並ぶ布団で眠る友人達、隅に置かれた旅行鞄、ハンガーに吊されたタオル。真新しい朝の光の中でそれらをみつめ、昨夜の楽しかった歓談や長くバスに揺られて疲れたことなどを順々に思い出し、そうしてやっと私は自分がどこにいるのか思い出したのです。
 振り返れば似たような経験はこれまでにもありました。子供の頃から引っ込み思案で口数の少ない私は年の離れた兄弟しか居らず、空想にふけってばかりのぼんやりした人間でした。手を動かしている最中に話しかけられると途端に集中力が途切れ、なにをしていたのかわからなくなります。ふたつのことをいっぺんにするということができず、親や教師からは手が遅い頭が鈍いと何度も叱られました。
 見当識の喪失。難しい言葉でいうとそういうことになるのでしょう。あるときは列車の窓際の席でぼんやりと考え事をしていると次の駅名を告げるアナウンスが流れ、その聞き覚えのない駅名に思わずヒヤリとなると手には白菜や牛蒡の詰め込まれたビニール袋を提げており、周囲を見渡しても知る人の顔はひとつもありませんでした。都会にいる姪夫婦のために、一人で隣町の朝市に行って来た帰りだと思い出すまで一分はかかったでしょうか。かつて夫と二人で朝市に行ったことを思い出すうちに眠気に頭を曇らせ、降りるべき駅を乗り過ごし見知らぬ街まで来てしまっていたのです。
 年が年ですし、ひょっとすると痴呆なのかもしれません。病院で診てもらうべきとは思うのですが、記憶が途切れたままになることはないので踏ん切りがつきません。数分もあれば思い出せるのです。辺りを見渡し、よく考えれば自分がなぜここにいるのか思い出せます。ただ、その思い出すまでの数分が地獄のように恐ろしいのです。
 ここ最近は家の中に閉じこもっています。毎日できるだけ同じことを繰り返しています。普通に家事をしていれば、畳みかけの洗濯物や煮えている鍋がなにをしていたのか思い出させてくれます。本を読まなくなりました。好きだったテレビの娯楽番組も観なくなりました。そういった夢中になってしまうようなものは楽しんでいるうちに意識が途切れてしまいそうで怖いのです。
 独り住まいの私を訪ねるような人はいません。必要にかられて外出することもあります。買い物をしなければなりませんし、姪夫婦に手紙をだしに行くこともあります。句会の集まりはどうしても欠かすことができません。とりたてて親しい人がいるわけではないのですが、人と会う機会を失うわけにいきません。
 そんなときは左手の小指にこよりを結び付けておきます。外出の目的をメモした紙片を、細く巻いてこよりにしておくのです。何度かそれに助けられました。手がかりさえあればなにをしていたか思い出すことができます。私は呆けてなどいません。病人ではないのです。
 昨日のことです。気付いたとき、私は遠く水平線を眺めていました。曇り空の下、鈍い灰色の海が広がっています。ふくらはぎをくすぐる感じがしました。見下ろすと、膝の下まで海に浸かっています。波の下、砂地に立つ裸の足首が、ゆらゆら揺れながら霞んで見えました。
 おばあちゃん、と呼ぶ声がしました。振り返ると、波打ち際に立つ幼い男の子の姿がありました。赤いマフラーに毛糸の帽子、着ぶくれた格好の可愛い男の子です。おばあちゃん、呼びながら頬を赤く染め、男の子は泣いています。
 誰もいない冬の渚でした。砂浜、その向こうにある海岸通り、建ち並ぶ商店や旅館、人影も通りすぎる車もありません。ただ幼い孫だけが一人きり私のことを呼んでいます。
 孫? ハッとして思い当たった瞬間、私は全身に寒さを感じました。水の冷たさは痛いほどです。両腕をかきあわせ胸を抱くようにして震えます。あれは孫ではありません。私達に子供はできなかったのです。あれは見知らぬ子供、よその子、恐らくこの近所に住む子が偶然に私のことをみつけたのでしょう。
 ひどい寒さに震えながら私は自分の左小指に気付きました。結ばれたこよりを、かじかんだ指先で苦労しながら解きました。広げた紙片、メモ帳を破り取った小さな紙、そこにただ一言、死にたいと書かれていました。
 それは、夫の七回忌の日でした。私はゆっくり、ゆっくり、孤独と哀しみに苛まれた長い時間をたどりなおしながら、冷たい海を砂浜へと歩きました。



ゆめ削除
投稿日 2006/02/05 (日) 14:09 投稿者 水瀬利

「あああああああ」
目が覚めても耳に残る。耳元で外国語を話される夢だが、最後にはいつも
「っぁあああああああああああああああああああああああああ」となる。
最初は怖かったが今はただ煩わしい。

この道を行けばあの世に続く。
行ってみたが何もなかった。
良く聞く話だが、何もないと言うことがあの世の証明なら俺はあの世に踏み込んだことになる。
「里見城主八犬伝、発見、発見伝。」
くだらないセリフで、俺の夢は幕を閉じた。
死んだのだ。
だってあの世に足、踏み込んでたし。

「夢を見て死ぬと言うことがあるのでしょうか。」
タモリは答えた。
「台本にないこと聞かないでくれるかなぁ」
世にも奇妙な物語のストーリーテラーをしているが、タモリは不思議な目にあったことがなさそうだと僕は思った。
第一、僕とタモリが共演はあり得ない。
目が覚めて、実家に帰ろうと僕は決心した。

今から自殺しようと思うのに眠気が襲ってきた。
「I don't sleep...I go...」
眠気はしかし死にたい気持ちを変えてはくれなかった。よく、布団が恋しくなって止めるとか本には書いてあるのに、あ――ぁ。
もう飛び降りてるし。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「またこの夢?」
私は写真立てを見た。
「背中押したの恨んでるわけ。」



根雪削除
投稿日 2006/01/29 (日) 08:01 投稿者 小田牧央


 吹雪の光景を、ぼんやりと眺めていた。窓一面を塗りつぶすダークグレー、雪粒が音もなく飛んでいく。
 乳白色の濁り水を掻き混ぜたような光景。無機質なその感じは、テレビのホワイトノイズを思い起こさせた。
 万年筆を手にしたまま、僕はぼんやりとしている。プラスチックのデスクに広げられた真っ白なメモ帳。なにも文章が思い浮かばない。
 景色なんか見てる暇はないぞ。この状況がわかっているのか。残された時間はないんだぞ。そう自分に言い聞かせはするのだけど、我知らず窓の光景に目が吸い寄せられ、あれこれと物思いにふけってしまう。
(誰かのすすり泣く声が聞こえる。白人女性が延々と神に祈りを捧げている。僕は聞こえないふりをする)
 子供の頃、雪が降ってくるのを眺めるのが好きだった。牡丹雪の、あのふんわりとした柔らかいものが次々と舞い降りる様子。特に夜、走っている車のフロントガラスに向かってくる雪を眺めるのはいちばんに好きだった。
 あの不確かな速度、落ちるのでも、飛ぶのでもない、無数の輝く星が黒い夜を背景に次々と降りてくる不思議さ。初めのうちは心躍らせながら目で雪粒を追おうとするのだけど、やがて追えきれなくなる。視界が広がり、頭の中から言葉が失われて、僕はその光景と一体化しながら心がどこかに消えていく。
 そう、あれは父の葬式の晩だった。僕の高校受験の年だった。母は妹を産んだ翌年に亡くなっていたから、みなしごになった僕らは車に乗せられ叔父夫婦の家へと向かっていった。昨日まで五体満足だったはずの父。交差点での衝突事故。遺体安置所に音もなく横たわっていた、あの安らかな顔がフロントガラスに迫ってくる雪を眺めるうちに冷たく冷たく僕の心の底に沈着していった。
(シッ)
 誰かのたしなめる声。振り返るいくつもの喪服姿と白髪頭。遠縁の親戚達。
 僕は踵を返す。妹の手を強く引っ張る。父の死を理解できない妹は飴玉を舐めながら小さくアニメの主題歌を口ずさんでいる。長い廊下を進み祖母の和室に入る。鴨居に掲げられた祖父の写真を見上げる。軍服姿が似合わない柔らかな目をした祖父は、三十二歳のときマレーシアで戦死したという。
(あれかな)
(あれって?)
(若死にの家なんだな)
(シッ)
 どうしたの? 妹の声に顔を向ける。なんでもないよ、僕は応える。なんでもない、なんでもない。ただ不安なだけ。
 十六歳で家出した妹は十五日後、隣町にある公園で死体となって見つかった。小高い丘の上にある公園は春になれば桜が満開で、頂上にある小さな展望台からは素敵な光景を眺めることができた。でも冬の展望台は誰もいなくて、剥き出しのコンクリートの上、降り積もる雪に埋もれていた妹は寒かったろうなと思う。
 ああ、そうか。
 妹に書けばよかったんだ。
 僕は、誰に書けばいいのかわからなかったんだ。一人になった僕は、誰に言葉をかければいいかわからなかったんだ。雪に心を奪われた空っぽの僕が、言葉を向けられるのはもう、妹しかいないんだ。
 窓の外に闇が走った。ダークグレーが途切れ、地上の暗い広がりと、砕けた宝石のような街の明かりが見えた。
 閃光。爆発音と同時に振動が駆け抜け、機内にいくつもの短い悲鳴が上がった。僕は万年筆を手にすると、デスクにしがみつくようにしてペン先を走らせた。



天井裏のお爺さん削除
投稿日 2006/01/02 (月) 17:52 投稿者 小田牧央


 小学生のときのことです。その頃の私は、お友達の家を探検するのが大好きでした。
 隠れん坊を言い訳にして、台所とか、家族の部屋とか、リビングとかを覗きます。物置や押入に潜り込んだり、勝手口から飛び出して裏庭を歩いたりします。素敵な物がたくさんありました。見上げるほど大きな鏡台や極彩色の熱帯魚の水槽、古い映写機に天井まである書棚、いいえ、たとえどこにでもある醤油差しや郵便受けでも、それはその家毎に違った表情をしていて、まるで違う世界に迷い込んだような不思議な気持ちになるのです。
 それは十二月のよく晴れた寒い日、新しいクラスでお友達になった、ミナコちゃんという子の家に初めて遊びに行ったときのことでした。瓦屋根の並ぶ、隣同士の壁と壁の間は猫くらいしか通れないような町の中に、二階建てのその家は建っていました。石塀に囲まれて、小さな庭に松の木があったのを覚えています。
 私はいつも通り、集まったお友達みんなに隠れん坊をしようと誘いました。ジャンケンに勝って隠れる役になると、急いで一人きりになると階段を探しました。いつだったか隠れん坊で二階の部屋に上がって、たしなめられたことがあったのです。不思議だけど、ときどきそういう家があって、二階とか奥のほうとかは家族しか入ってはいけない、そういう約束になっているのです。だから初めての家で隠れん坊をするときは、家の人にみつかる前に二階を探検するようになったのでした。
 階段はすぐにみつかりました。幅が狭くて角度が急で、明かりもなくて薄暗い階段は、自分を違う世界に連れて行ってくれる雰囲気があってゾクゾクしてきます。上の方から、ごと、ごと、と小さく物音が聞こえました。誰かいるようです。音を立てないよう、用心しながら左右の冷たい壁に手をついて上がりました。
 短い廊下がありました。左右に襖が二つずつ左右に並んでいます。どの部屋から覗こうかと迷っていると、目が廊下の突き当たり、なおいっそう薄暗い奥のほうに引き込まれました。そこには上り階段がありました。まだ上の階があるのです。
 三階! お友達の家をたくさん探検してきた私も、三階のある家は初めてでした。五人も兄弟姉妹がいるお家や、大きな白い犬を飼ってるお金持ちの家にだってなかったのです。私はワクワクしながら足を進めました。けれど廊下の奥まで来ると、オヤと思いました。階段が、とても短いのです。数えてみると、五段しかありません。ぼんやり上の方から明るい光が射し込んでいます。階段の上に廊下はなく、すぐに襖で、それが細く開いているのです。
 冷たい階段に手をついて、四つん這いでゆっくり上がります。ごと、ごと、という音がまた聞こえました。どうも襖の向こうに誰かいるようです。私は奇妙なものに気付きました。襖を開くのに手をかけるところに、見慣れないものがくっついているのです。暗くて最初はよくわからなかったのですが、近付いてみて初めてわかりました。それは、南京錠でした。襖とその近くの壁に金具がくっついていて、錆び付いた古い南京錠が金具同士を結びつけていました。強い力でひっぱったのか、金具は歪んでいて、握り拳半分くらいの隙間があります。私はそっと目を寄せました。
 綺麗な、窓から陽の射し込む明るい部屋でした。四畳半の和室で箪笥と押入があって、どこの家にもありそうな普通の部屋でした。ただ少し変なのが、天井です。天井がとても低いのです。大人なら頭がつかえてしまいそうです。それに炬燵とかストーブとか、部屋を暖めるものがなにもありません。でも陽射しのお陰で、光に満ち溢れる部屋はとても暖かそうです。
 赤ちゃんがいるのでしょう、部屋の隅にはオマルがありました。それに赤ちゃんの食べるご飯みたいに、おかゆとかチキンライスによく似た、甘ったるい匂いがします。私には年の離れた幼い弟がいるのでよくわかるのです。
 でも、今は赤ちゃんはいないようでした。代わりに着物姿のお爺さんが一人いて、なにかしています。箪笥の前に立って、引き出しを開けては中を探し、閉めて別の引き出しを開けることを繰り返しています。真っ白な髪に鼠色の着物姿のお爺さんは昔話にでてきそうな感じで、私は不思議な世界にいる気持ちになってきました。
「誰だい?」
 急に、お爺さんが振り返りました。目と目があって、私はビックリして襖から顔を話しました。
「ミナコのお友達かい?」
 その優しそうな声に、思わず私はハイと返事をしました。恐る恐る襖の隙間に目を近付けると、お爺さんは箪笥の前から離れて襖の近くまで来ていました。天井が低いので、頭を斜めに傾げています。ほがらかな笑顔を浮かべています。
「そうかそうか、ミナコのお友達か。ミナコのお友達だね。よく来たね。お菓子はあったかな。甘い物は好きかな」
「ミナコちゃんのお祖父さんなの?」
「違うよ」冗談じゃない、というふうに、お爺さんは皺くちゃの顔をしかめました。
「エ? じゃあ、だあれ?」
「誰でもないよ。困ってるんだ。あいつらはね、勝手にこの家に住み着いてしまった。私の家をのっとってしまったんだよ」
 のっとる? このお爺さんは、なにを言っているのでしょう。私は頭が混乱しました。この家には、お爺さんが初めから住んでいた。そこへミナコちゃんとそのお父さん、お母さんがやってきて、勝手に住み着いてしまった。そう言っているのでしょうか。本当だとすれば大変です。
「じゃあ、お爺さんは家族じゃないの? 本当はこの家はお爺さんの家なの?」
「そうさそうさ。警察にも電話したけど、助けてくれなくてね。とうとうこの部屋に閉じ込められてしまった。ああ、そんなことより、どうしようかな、お菓子はあったかな。探し物をしてるんだけど、みつからなくてね」
 そう言いながら、お爺さんは背を屈めて、裸足の足首を掻きました。見ると、右の足首に太い紐が結ばれているのです。目で追うと、それは奥の壁につづいていました。金具が柱にくっついていて、それに紐の端が縛ってあります。お爺さんは紐のせいで、この襖まで来ることができないのです。
「なにを探してるの?」
「爪切りだよ。爪切りがないんだ。箪笥に入れておいた気がしたんだけどなあ。済まないけれど、下に行ってミナコから借りてきてくれないか?」
「爪切りだね? うん、わかった。聞いてくる!」
 私はそっと襖から離れると、急いで階段を下りました。思いがけない秘密を知ってドキドキしていました。ミナコちゃんのお父さんとお母さんは悪い人だったのです。お爺さんをこんなところに閉じ込めて、家をのっとっているのです。ミナコちゃんも知っているのでしょうか。それとも秘密にされているのでしょうか。
 いろんなことを考えながら私は一階まで下りるとミナコちゃんの姿を探しました。台所を、居間を、お風呂やおトイレも探しました。庭にでて、やっとミナコちゃんをみつけました。隠れていたのをみつかってしまったのでしょう、鬼役の子と一緒に歩いています。隠れん坊をしていたことを私はすっかり忘れていました。
「あれ、どうしたの?」
 走って飛び出てきた私に、ミナコちゃんはおかっぱ頭を傾げて不思議そうな顔をしました。
「爪切り! 爪切り! お爺さんが爪切り欲しいって!」
「お爺さん? 誰のこと?」
「三階のお爺さん! 早く早く!」
 私はミナコちゃんの腕をぐいぐいひっぱります。お爺さんのことを、ミナコちゃんは秘密にされてるのでしょうか。私の言うことがよくわからない顔で、それでも台所に案内してくれました。テレビの上にあった爪切りを私は手にすると、そのままミナコちゃんと手をつないで薄暗い階段を上がります。するとなぜか、ミナコちゃんは不安そうな顔になりました。
「私、二階は上がったことないの」
「本当? 自分の家なのに?」
「ウン、お母さんが、危ないからって」
「それはね、秘密だからなの。三階にはお爺さんが住んでて、本当はそのお爺さんがこの家の人なの。ミナコちゃんのお父さんとお母さんはそれを秘密にしてるんだよ!」
 二人で階段を上がりきると、奥に向かいます。けれど急に、ミナコちゃんは嫌がって私の手を振りほどきました。
「ダメ! 二階は上がっちゃダメなの! 三階なんてないよ、早く戻ろう!」
「本当だって! ほら、あそこに階段があるでしょう? あそこに着物姿のお爺さんが住んでるの。鍵があって、足を紐でつながれてて出てこれないの! 早く、早く!」
「やだ、こわい! こわい!」
 ミナコちゃんは震えています。胸の前に握り拳をあてて足をすくめています。今にも泣き出しそうに顔を歪めています。本当に怖がっているのです。
「わかった、ゴメン。そこにいていいから。一人で行ってくるから。お爺さんに爪切りを渡してくるまで、そこにいてくれる?」
「うん、うん」
 うなずくミナコちゃんを置いて、私は一人、廊下を奥に進みます。短い階段を、四つん這いでそろそろと上がります。さっきと同じ、ごと、ごと、という物音がしました。襖の隙間から、覗き込みます。陽射しが翳ってきたのでしょうか、さっきより部屋の中は薄暗く見えました。箪笥の前に立つお爺さんが、開いた引き出しの中を探っています。
「誰だい?」
 お爺さんが、振り返りました。私はなぜか、ぐっと喉になにか詰まったような気持ちになりました。
「ミナコのお友達かい?」
「うん、爪切り、持ってきたよ」
「おや、ミナコのお友達か。ミナコのお友達が来てるんだね。そうそう、お菓子、お菓子を探さないと」
 そう言ってお爺さんはまた引き出しの中をガサゴソと漁り始めます。心の中が捻れていくような気持ちがしました。どうしたんだろう、お爺さんは、私のことを覚えてないんだろうか。
「お爺さん、爪切り! ほら、爪切り持ってきたよ! 探してたでしょ!」
 指先に爪切りをつかんで、腕を襖の隙間に無理矢理差し入れます。
「爪切り? ああ、爪切りか!」
 お爺さんが振り返り、私の指先をみつめます。箪笥から離れ、紐が伸びきるところまで歩き寄ります。私は勢いをつけて爪切りを投げました。畳の上に落ちたそれを、お爺さんが拾います。
「ごめんなあ、爪切りも探してたんだった」
「え? 他になにか探してたの?」
「うん、錐だよ。錐を探してたんだ。箪笥の中にあったと思ったがなあ。押入だったかな?」
「わかった、キリだね? 穴を開けるキリだね?」
「そうだよ、大工道具の錐だ。ミナコに聞けば、きっと知ってると思うから」
 何度もうなずいて、私は襖から離れると駆け足で短い階段を下りて、廊下で待っているミナコちゃんのもとへ走りました。ミナコちゃんは寒そうに手に息を吹きかけ暖めながら、私を待ってくれていました。
「ミナコちゃん、ミナコちゃん、今度はキリだって! キリがいるんだって!」
「ねえ、もう下に行こ? みんな待ってるよ」
「ダメだよ、キリを持ってかないと、お爺さんが探して――」
 次の瞬間、激しい音がして、私の言葉はかき消されました。
 ハッとミナコちゃんの顔がこわばり、瞼が大きく見開かれるのがわかりました。その目は私ではなく、私の背後、ずっと奥をみつめています。
 振り返ると、小さな音を立てて、短い階段をなにかが転がり落ちてきました。小さな金属の塊。それは、金具でした。南京錠をつなぎ止めていた金具でした。
 裸足の足首が、いちばん上の段に現れました。みしり、みしり、と音を立てて、ゆっくり降りてきました。
「……あったよ」
 お爺さんがニコニコ笑い顔で右腕を振っています。その指先に、錐が握られています。木製の柄、鋭く尖った針先。
「あったよ……押入の、工具箱の中にあった」
 錐を持っていない反対のほう、左手から、なにか転げ落ちました。階段を転がって、廊下の上に落ちたそれは、爪切りでした。刃先に、お爺さんの足首につながれていた、あの紐と同じ色の糸くずが絡み付いていました。
 背後から、物凄い声がしました。ミナコちゃんの悲鳴でした。でもそれは、とても人の声とは思えないほど大きく、強く、私の胸を震わせました。お爺さんが走り出したのが、それと同時でした。ぼんやりしていた私はお爺さんに突き飛ばされ、廊下の壁に身体を強くぶつけました。思わず廊下に座り込み、フト見ると泣き顔で階段を駆け下りるミナコちゃんと、鬼のような恐い顔をしてそれを追いかけるお爺さんの姿が見えました。私は泣きながら立ち上がると四つん這いで階段に向かいました。階段の下、一階の廊下に二人がいました。薄暗がりの中、仰向けになったミナコちゃんの上に馬乗りになって、その顔にお爺さんが何度も錐を振り下ろしていました。ミナコちゃんの閉じた両瞼からダラダラと血が流れているの見て、私は気を失ってしまいました。
 気が付いたときには、家に帰っていました。気を失っている間にお母さんが迎えに来たのです。お爺さんは近所で暴れていたところを、警察の人が来て連れて行かれたそうです。私は何度かお母さんに、あのお爺さんはミナコちゃんの家に住んでたんだよと話したのですが、信じてもらえませんでした。あのお爺さんがどこから来たのか誰も知らないのだそうです。
 ミナコちゃんは目が見えなくなってしまいました。私はゴメンね、ゴメンねと何度も謝りました。学校も転校してしまったけれど、今も仲良しで、よく遊びに行きます。
 二人で遊んでいるとき、天井から物音がすると、ミナコちゃんは不安そうな顔で見上げます。なにも見えない目で、天井をみつめます。三階のあの部屋は階段ごと板が打ち付けられて、今はもう誰も入れなくなっています。だからその音は、ただのきしみだったり、鼠とかだったりするのでしょう。けれど、ミナコちゃんは「誰かいるのかな」と怯えた顔で私につぶやくのです。すると私にも、ごと、ごと、という音が、聞こえてきそうな気持ちになるのです。



閻魔ラ――メン2削除
投稿日 2005/12/05 (月) 13:31 投稿者 水瀬利

もう舌も出ない。
貧乏で。三文銭は奪衣婆に取られたし。
オヤジが言った。
「お客さん。それで食えるのでスカイ?」
「………」
俺は口の中に手を差し入れた。
案の定舌がなかった。

まいったまいった。
金もない上に、舌が本当にないとは。

http://ip.tosp.co.jp./i.asp?i=namaclear



木の実削除
投稿日 2005/11/20 (日) 12:07 投稿者 水瀬利

アーモンドが黒糖で包んである。
私は手を引っ込めた。
せっかくのアーモンド。

マカダミアナッツが食べたいと思ったら、チョコでくるんであった。
思わず菓子箱を落としてしまった。
コンビニだった。
人が見ている。私は何の気もないような素振りで箱を戻した。

ピーナッツが食べたいのに、小さなお煎餅みたいな、俗に言う柿の種と交じっている。

一人甘栗を食べているが、モサモサしている。
カリカリという食感が欲しい。

ひまわりの種を食べている。
木の実じゃない。

ドングリ。
渋を抜けば食べられるらしいが、食べるときは粉状にしなければいけない。

わたしは、森の中で土に木の実を埋めているが、忘れてしまう。

アーモンドとマカダミアナッツとピーナッツの詰め合わせを見つけた。
吐き気がした。
詰め合わせの木の実を庭に埋めた。
「馬鹿だなあ。芽なんかでないよ。」
夫の声。
私は夫に飛びついた。
夫は蛇なのに。
リスの私は蛇に飼われている。
「すぐ行かなくちゃいけないんだ。今度は東北に出張さ。」

http://ip.tosp.co.jp./i.asp?i=namaclear



一人きりのワルツ削除
投稿日 2005/11/19 (土) 23:17 投稿者 小田牧央


 あの頃、志穂は言ってた。飛び降りのとき靴を脱ぐのって変。外なのに靴を脱ぐなんて、変な感じじゃない? 冬の透明な陽射しの教室で、志穂はうららかに笑ってた。どうせなら仰向けに落ちたい。空を見ながら落ちたい。硬い地面が迫ってくるの見るなんてヤダな。
 けっきょく志穂は飛び降りたりなんかしなかったけど、そのとき私はウン、そうだねとうなずいてたと思う。だから私が、二十二才になった誕生日にその古い十二階建ての団地の屋上から飛び降りたときは(別に当たり前に靴を脱いだり下向きでも構わなかったんだけど、なんだか嘘つくみたいで悪い気がして)その意見に従うことにした。
 寒いけど、よく晴れた日だった。きれいな青空で、落ちたままコンクリートに横たわって空を見上げながらボンヤリしてた。夏の突き抜けるような蒼じゃなくて、セロファンを何枚も重ねたみたいな水色。ベランダの柵が垂直に伸びる、動くモノのない停止した光景。フッと目がそれに気付いた。薄い雲みたいな影。七階くらいの高さに、小さな白いモヤみたいなのが浮かんでる。なんだろ、あれ。
 人声がした。いくつかのベランダから顔が覗いた。私は起き上がって、南のほうに歩いていった。この団地を地図で見たとき、出入り口は南の通りに面したほうにある、と覚えてたから。もう一度屋上に行って見下ろせば、あの白い雲の正体がわかる。そう思った。
 一瞬だけ振り返って、自分の死体を見た。すごくグロテスクなことになってて、慌てて目を逸らした。ちょっと意外な気がした。なんか、自分はうまく死ねない気がしてた。顔に物凄い傷が残るとか、脊椎を痛めて首から下が動かなくなるとか、そういうすっごく悲惨な身体で生き残るんじゃないかと思ってた。死にたい、というのとは少し違う。ここにいたくなかった。自分がいま息をしてるこの場所、ここから逃げたかった。
 集合郵便受けのフタをばんばん叩いて(もう私は幽霊だからこんなことをしても誰も怒る人がいないと思うと嬉しかった)エレベーターを呼ぼうとしたけどボタンを押しても点灯しなかった。しかたないから非常階段を上った。階段は暗くて冷たくて、誰もいなくて寂しかった。志穂のことを思い出した。今日よりずっと寒い日、どこかに消えてしまった志穂。旧校舎への渡り廊下を歩いてくの用務員のおじさんが見たのが最後だった。鞄だけが美術教室の床に残っていて、ワルツを踊ったみたいな足跡が埃の上に残ってた。
 首の後ろに硬い物あてて寝ると、気持ちいいよ。その前の日の放課後、志穂は大発見したみたいに言ってた。目が覚めて首を持ち上げると、とまってた血の流れが戻ってきて、ジーンって痺れるの。それが気持ちいいの。睡眠薬で死ぬときって、こんな感じかなとか思うよ。私は志穂の手首を握った。握らされた。親指と人差し指の輪、志穂の細い手首をぎゅっと握って、冷たくなるまで握りしめ続けた。冷たい指先で私の頬に触れた。
 屋上のドアを開ける。暗くて狭いのが、急に明るく広くなってとまどう。人影がない。風が少し吹いてる。でも雲は動かない。空が少し近くなった気がした。
 柵に近付く。屋上の縁から、見下ろしてみる。あった。白いモヤモヤ。
 それは私だった。石膏の彫刻みたいな白い私の姿。仰向けに空中に横たわってる。見開いた目で空を見ながら落ちていく一瞬の私の残像。
 思い返してみる。無表情な顔をみつめる。後悔があっただろうか。迷いがあっただろうか。なかったと信じたい。でも残像はそこにある。どんなに自分を信じても、虚ろな顔の私は宙に横たわったまま動くことがない。
 いつか消えるんだろうか。この残像はいつか雨風に消えていくんだろうか。私も、ここにいる私も、いつか消えてしまう残像に過ぎないんだろうか。
 あの日、夕闇の中で、階段を志穂は後ろ向きに下りた。手すりをつかんで、けれど足元は見ないで、後ろ向きに階段をゆっくりと下りた。危ないよ、と声をかけた私に、志穂は微笑みながらうなずいた。これはおまじないなの。一緒にやらない?
 どうして逃げてしまったんだろう。どうして志穂を置いて帰ってしまったんだろう。消えてしまえばよかったのに。コンクリートに吸い込まれて、志穂みたいに私も消えてしまえればよかったのに。
 両手の人差し指と親指で、輪を作って。自分の首を、じわじわ絞める。うつむいたまま、じっと待つ。それから手を離して、腰を落として、初めのステップを踏む。不安と冷たさ、目眩と痺れの心地よさの中で、私は誰もいない屋上、一人きりのワルツを踊った。



閻魔ラーメン削除
投稿日 2005/11/01 (火) 16:30 投稿者 水瀬利

ラーメン屋の暖簾をくぐると、スープの匂いがつんとして、ああやはりダシは人骨に限ると俺は思う。
 「おやじ、人骨二つ。」
彼女もニコニコして、この店の雰囲気を気にいてくれたようだ。
俺は、ホテルのレストランとか言った気取った店は行き馴れない。
やっぱり俺がラーメン好きなのは彼女に知っておいて貰った方がいいだろう。
 「ねえ、私、ミソラーメンも食べたいわ。」
 「おやじ、ミソ二つ」
なかなか俺の彼女は筋が良い。
いきなり脳ミソはきついと思うが、冒険心は大切だろう。
脳ミソは60℃でボソボソになってしまうが、そこが腕の見せ所。
ここのおやじは元閻魔だったらしい。閻魔ライセンスの所持者だ。
だから、新鮮な人間をいつも大量に入荷できるというわけだ。

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迷い家削除
投稿日 2005/10/30 (日) 17:58 投稿者 小田牧央


 遅い夏期休暇をとることができた。帰省列車から紅葉する山々を眺めた。常緑樹の杉でさえ、くすんだ感じなのがわかる。五年前に増築した実家は、どこかよそよそしい感じがした。
 誰彼時、縁側に座り込んでいると、散歩から父が帰ってきた。私の顔を見てもなにも言わず、ただ黙って隣に腰を下ろした。太郎という名の犬が、私の顔を見上げながら足下でおすわりの姿勢になり、甘えたような声をあげ尻尾を振った。散歩紐も首輪もない。父はワシワシと自分の顔を撫でさすり、それから煙草を喫い始めた。
 風がなく、暖かい日だった。犬は少し呆れたような顔をして、プイと腰をあげると庭の奥へ去った。少し、安心した。子供の頃、犬を飼っていたが、なにか悪いモノを喰ったのか汚物を吐きながら死んでしまった。
 新しい家と同じように、父の飼い始めた新しい犬には、いつまで経っても慣れることがなかった。嫌いだとか、苦手というわけではない。ただ距離を感じ、それを縮めることができなかった。
 夕暮れの衰えた光の中で、父の口元から、まっすぐに煙がのぼる。ぽつぽつと、会話をした。どういう流れだったろう、ガラクタ置き場の話しになった。町中を目的地もなくさまよい歩いていると、異次元のように、そういうものが現れることがある。細かい物がたくさんある場所、雑然としている店。金物屋、ガラス屋、自動車整備店。重力を感じる場所というのが確かにある。カメラを持っていなかったことを惜しむ光景がある。改装中の店、工事中のビル、取り壊している建物、廃屋、プラスチックの欠片が枯れ草の上に散乱する空き地。
 不思議なことに、同じようにこまごまとし雑然としていても、コンビニエンスストアや家電量販店にはそれを感じない。暗さ、荒廃感、そういったものが必要らしい。風雨にさらされたセメントの壁、化け物のように配線や機械類が込み入った電柱、裏路地にある錆びた非常階段。
 気配を感じた。振り向くと母が立っていた。ご飯にしましょう、一声だけ残して、さっさと背を向け去っていく。廊下の奥に小さな後ろ姿が翳ってゆく。
 父を見る。ぼんやり、宙に視線を浮かせている。私が中学のとき、錯乱した父は仏間の障子を叩き破り、畳の上を転げまわった。精神病院に通い、人並みの日常生活を送るようになってからも、ときどき父はそこにいないような表情を見せる。
 それとも、これは私の幻だろうか。父も母も、とうに亡くなって、狂った私は廃屋に一人座っているのだろうか。あの日、町でみかけたあの場所に踏み込んでしまい、心奪われたまま陶然として裏路地をさまよい歩いているのだろうか。
 遠くで吠え声がした。急に辺りが暗くなった気がして、立ち上がりかけていた私はくらくらと腰を崩した。手をつくと、日に灼け、ざらついた縁側が痛いように感じた。



死体削除
投稿日 2005/10/13 (木) 21:13 投稿者 水瀬利

朝起きると死体が下にいた。
「やべ、のしちゃった。」
――気にすんなよ。
「すいません。」
寛容な死体で良かった。



嫉妬削除
投稿日 2005/10/06 (木) 19:34 投稿者 水瀬利

惑星間のひしめき合いにふと空を見上げた。
「我々の住宅問題にそのうち発展するだろう。」
スーツ姿の男はワンルームマンションの最上階にビニールシートをひいて日光浴した。
黒い下敷き越しに見る空は星もなく地球の大地のように見えない線があるわけでもなく、スッとした。
「ふふふ。もう宇宙に住んでみる妄想も夜にするすべもない。星が増えすぎた。」
階段を使い外に出ると個人衛星にぶつかってしまった。
「いやあ。済みません。」
「いいや。増えすぎてね。あまり流行に乗らないが良いよ。」
「ですが、見栄えがしますね。」
その人は照れ笑いして去った。
「ふん。頭の回りに衛星をグルグルするなんて、悪趣味だ。」
スーツ姿の男は嫉妬に駆られてそう言った。



習作削除
投稿日 2005/10/04 (火) 23:59 投稿者 椿

陽だまりに寝ている奴がいると思ったら、
死体だった。
こんな陽気に幸せな奴だ。



習作削除
投稿日 2005/10/04 (火) 23:57 投稿者 椿

心を持たぬ女が、
納屋で密かに卵を産んだ。
卵はすぐに腐りはて、
中から泣かない子が生まれたそうな。



習作削除
投稿日 2005/10/04 (火) 23:56 投稿者 椿

満月にあなたを映して想う夜。
吾の心も映すのか、
月は日に日に欠けていった。



逃避削除
投稿日 2005/10/01 (土) 17:11 投稿者 水瀬利

合い着の季節が終わって、袷を着るようになると秋桜が咲き秋茜の往来を目にする。

トンボのメガネは水色メガネ

青いお空を飛んだから

とーんだから〜

「多分それは塩からトンボのことですね。」
「飛ぶ生き物は良いですね。」
麻の紡ぎを着た青年は、少しずれていると重う。
さては着物初心者だろうか。着物は、幾ら良いものを着ていても季節を間違っては仇だ。
「それは僕が夏の生き物だからですよ。」
「夏のトンボ?」
細身の黒い着物姿は、少し哀れに見えた。
私は、少し良い仲だった相方と秋風が立っておりさみしい気持ちがあって、青年を宅に招いた。
客間に通され、青年は赤い格子を見たのだろう、憂い顔で、まさか僕を閉じこめたりはしないだろうね、と呟いた。
「ここは、昔お妾をしていた人が、女郎屋が懐かしいと言って、塗ったようです。漆で塗ったのね。もったいなくてそのままにしているの。」
言いながら、私こそはこの妾宅に閉じこめられた、母の娘だと言うことを思い返した。
母にそっくりの私を、旦那は手放したがらず、とうとう認知もされぬ、医者の手にも掛からずこの世に現れた私は、戸籍がなかった。
学校というものも知らず、旦那の手が着くまで振り袖を着て、この格子から外を見ていた。
「あら、こんなことを。いやあな話を聞かせてしまったわ。」
恥ずかしかった。きっと順序もめちゃくちゃに話したのだわ。
青年はにこやかな顔で窓外を見ていた。
「こういう眺めもいいものですね。いつも上から見ているから。」
ほうっとした私は一瞬見逃した。
青年は黒い細いトンボになって赤い格子の隙間から飛んでいってしまった。

旦那は私の、淡い恋を知っていたらしく少し怒ったように私を扱いましたが、上手く行かなくなったことを知るといつものように沢山ものを与えて私の機嫌を取るのでした。
翡翠や珊瑚で引き出しはいっぱいですが、私はあまり着飾るのは好きではないので、旦那が来るときだけ髪に挿したりします。

「お前もそろそろ、可愛い娘を産みなさい。」
私も格子の隙間から飛んでいってしまいたい。



その腕に傷を削除
投稿日 2005/09/27 (火) 20:09 投稿者 小田牧央


 腕を好きになったのは八才の時。ママと一緒にデパートでお買い物をしていて、そのマネキンと出会った。
 それは水玉模様のワンピースを着た大人の女性で、ウェーブのかかったブルネットの髪に済ました微笑み、動かない大きな瞳をしていた。牛乳みたいに白い肌の剥き出した腕をくの字に曲げて、腰を軽くひねってスラリとしてた。
 いつものようにママはお店の中を好き勝手にブラブラして服を眺めたり手にとったり、私はよちよちアヒルの赤ちゃんみたいにその後ろをついて行くだけ。なのにあの日、私は初めて足をとめてマネキンを見上げて小さくお口を開けたまま立ち尽くした。ママが遠くへ行ってしまっても、時間がいくら流れても気にならなかった。初めて私は迷子になった。その傷ひとつない腕のなめらかさに一人で夢中になってた。
 その日から、人の腕が気になってしょうがなくなった。学校でも授業中にクラスメートの腕をひとつひとつ観察した。頬杖をつく腕、すっと真っ直ぐ伸びた挙手、腕組みの筋肉の隆起、椅子の後ろでブラブラさせるときのしなやかさ。いろんな腕の表情に私は夢中になっていた。
 もちろん自分の腕も気になった。少しでも綺麗な腕、理想の腕に近付けたかった。陽に灼けないよう一年中長袖を着て、体育の授業の後は汗疹ができないよう水道で洗った。ママの化粧品棚から保湿クリームを盗んだり、鏡の前でいろんなふうに腕を組んだり反らしたり、いちばん綺麗に見えるポーズを探した。うっかり転んで擦り剥いたときなんて悲し過ぎて頭がどうにかなってしまいそうだった。絆創膏の上から手の平を押し当てて、早く治らないか痕が残ったりしないか恐くて恐くて不安に震えた。絆創膏を剥がしては消毒薬を塗り直して傷が少しでも小さくなっていないか何度も確認した。
 そこまで強く腕のことが気になってしかたなかったのは小学校を卒業するまでだったと思う。それでも、女の子として綺麗でいたい気持ちは普通にあったから自分の腕を大切にケアするのだけはやっぱり続いた。
 年月が過ぎて、私はある県立病院の皮膚科で看護師として入院患者の世話をするようになった。薬を塗る手伝いや包帯の交換、食事指導とか検温とかカルテの整理とか毎日が同じような業務の繰り返しだった。
 腕への思いが蘇ってきたのは注射のせいだった。肌の病気の人ばかりだから綺麗な腕の人はあまりいなくて乾燥してたり湿疹があったり見劣りのする腕が多かった。そんな腕に注射器を構えた私の腕を添えるのはどこかくすぐったいような恥ずかしいような気持ちがした。思い切って針を刺し薬液を注入すると気持ちがひどく高ぶる。病んだ腕に針を刺すのはまるでやんちゃをした子犬を叱りつける行為に似ていて、やるべき大切なことだと思いながらどこかひけめを感じて本気になれず戯れの演技のように自分を励まし楽しませないといけなかった。
 そういうことが積み重なって心労を感じ眠れない夜には掛け布団から腕を伸ばしてみる。普段はコンタクトレンズをしてるけど眠るときは外してるから視界がおぼろになる。カーテンの隙間から月明かりが差し込む晩は天井へ差し伸ばした腕がぼんやりとかすんで見える。白く長いものがゆらゆらと輝きながら揺れ動いてる。私は指が許せない。指を伸ばしたときにできる関節の皺が気に入らない。手の甲の腱も好きじゃないし手の平の生命線とか筋も嫌いだ。手首の内側から甲の指が始まる辺りへ向けて鋭い刃物で斜めに切り取ってしまえたらと思う。
 ある日、病欠した同僚の代わりに中学生の女の子を受け持つことになった。家が火事になり、ひどいヤケドで数週間前に入院した子だった。家族を失い精神的に深い傷を抱えてると聞いていた。とりかえる包帯や注射器を乗せたカートを押しながら病室に入ると、その子はベッドの上で膝を抱えてテレビを見ていた。生気のない瞳で上目遣いにブラウン管をみつめながら口を小さく開けて動かない。声をかけても一回では気付かず繰り返し呼びかけてやっと振り返ってもらえた。私はできるだけ淡々と事務的に、いつもの看護師は急病のこと、私が代理であることを伝え、気分は優れないか困ったことはないか決められた質問をして回答を記した。台風が去って急に寒くなった日だった。空が曇ってた。私は女の子から体温計を受け取り、注射をしますので袖をめくって下さいと決まり文句を言った。カートからゴム製の駆血帯とアルコール綿を手にとり振り返ると、動けなくなった。
 完璧な腕が、そこにあった。
 駆血帯で肘から十センチ離れた上腕部を縛る。白い肌がゴムによじれて歪む。親指を内側に入れて強く握って下さい。自分の声をどこか遠くに聞きながらアルコール綿で肘の内側をこする。少女はされるがまま私の顔を見ようともしない。まるで人形の腕を相手にしているよう。カートから薬液を充填した注射器を手にとり指先で軽く弾いてピストンを少し押し空気を逃す。注射器を構えて完璧な腕に屈み込む。青い血管が浮き出ている。寄生虫のように醜い。私は息を吸う。静脈を探り機械的な動作で針を刺す。ぷつん、という手応えがあった。更に針を進める。
 ブルネットの髪があった。動かない瞳。凍り付いた微笑み。少女の首はあのマネキンになっていた。それはゆっくりと向きを変えていく。右へ、右へ、右へ。完全に後ろを向いても、マネキンの首は動きをとめない。一回転してもとまらない。少しずつ速度をあげてグルグルと回転を続けるとポロリと落ちた。切断面は電球のソケットのようなネジ穴だった。
 その後の記憶が私にはない。同僚にそれとなく聞いてみたけれど、いつもと同じ変わりなく作業してたという。病室を覗いたけれどあの女の子もマネキンに変わっているはずもなく普通にそこにいた。家をでるときになって窓を閉めたかどうか思い出せなくなるのと同じで、私の身体は確かな意識のないまま自動的に動いてしまっていたのかもしれない。あの瞬間から帰宅し就寝するまでの記憶が私から失われたのが唯一の異常だった。
 ときどき、あの晩のことを思い出す。洗面台の鏡に映った私の顔を思い出す。パジャマを着た私はそこで初めて我に帰る。虚ろな瞳が私を見返している。自動的に動く身体の内側で意識が動き始める。動き始めた意識が鏡に映る剃刀を目にする。私の左手が持っている剃刀を目にする。激しい哀しみと後悔の念が押し寄せてきて、パジャマの袖をめくり剥き出した腕に剃刀をあてる。呻き声をあげ、強い痛みと流れ出す血を見下ろしながら、ようやくそこで安堵している自分に気付く。もっと早くこうするべきだったと自分を叱りつけながら、洗面台の前でゆっくりと崩れるように座り込む。



削除
投稿日 2005/09/13 (火) 11:01 投稿者 水瀬利

美しい首。
その首には自意識が無く、各家庭に一つや二つはあるものでした。
何も食べず、ただ呼吸だけしているような、幻想世界の戦利品。
−娘よ、恋してはいけないよ。
−恋すれば必ずやこの首は体を取り戻し、お前を食らって去って行く。
−元の世界に去っていく。
娘はこの繰り言をうるさげに聞き流しながらも、首に見惚れて目もそらせずに言うのでした。
−ええ、こんなもの、ただの置物よ。
−オランピアの話しのようにばかばかしい事ったら有りはしないわ。
村人はこの首にも劣らぬ美しい娘を悲しい目で見つめております。
娘はすでに首に心囚われて、後、一歩で首に食われてしまう。
娘は首と話しているのです。
−娘よ、恋してはいけないよ。
−恋すれば必ずやこの首は体を取り戻し、お前を食らって去って行く。
−元の世界に去っていく。



目を閉じて削除
投稿日 2005/08/26 (金) 16:59 投稿者 水瀬利

カザルカナルアベア
悲しいことがあると自分を信じることが出来ない。
そんなとき唱えるのがカザルカナルアベア
「泣き出したあなたをどうすればいいの。」
「カザルカナルアベア」
その人は去ったけれど私にはカザルカナルアベアがある。
ある時出会った。
「としさま!」
「や、さよなら」
「まってくださらない?お話ししましょ。」
その人は鶏だった。
「ああ、カザルカナルアベアと言えない人は駄目。」
私は目を閉じて唱える。
カザルカナルアベア 



心の秘密削除
投稿日 2005/08/26 (金) 11:49 投稿者 小田牧央


 小学生の頃、卒業式とか文化祭とか、体育館に全校生徒が集まって校長先生の長いお話し聞くのにじっとしてないといけないとき、僕はよく天井を見てた。鉄骨が縦横に入り組んだ天井に、僕の分身がひそんでいるのを眺めてた。それは空想のもう一人の僕で、梁の上を命綱もなしに歩いたり、照明器具にぶら下がったりしていた。分身は本当の僕のように臆病でも身体が弱くもなく、小柄なだけで僕と姿形に変わりはなかった。暇つぶしのために、僕はそうやって空想の僕を天井のあちらこちらに移動させ、危うく落ちそうになってヒヤリとしたり、鉄骨の間に挟まっていたボールを落としたりして遊ばせていた。
 分身といっても、それは操り人形のように命のないものだった。そう、身代わりといったほうがいいかもしれない。名前はなく、会話をすることもなく、ただ僕の代わりに冒険してくれる操り人形。でも時々、僕とそいつが重なるように感じたことがあった。本当に動いているのは分身で、僕がそいつを空想で動かしているだけのはずなのに、本当の僕が体育館の天井にいて、めまいがするような高みから落下しそうになる恐怖を感じたことがあった。
 僕のそうした些細な空想癖は、高校生になっても続いていた。持病が悪化して手術することになり、入院することになった。冬のことで、ベッドが窓辺にあったから毎日のように表の雪景色を眺めていた。分身の僕は退屈をもてあそび、駐車場に並ぶ車の屋根の上を飛び石のように渡ったり、雪吊りをした前庭の松の木に雪玉をぶつけたりしていた。絶え間なく降り続ける雪片を全身で受け止めながら、電柱から電柱へと冷え切った身体で電線の上を綱渡りしていく。白い光景の中、寒さに震えながら僕は雪の上を子供のように転げ回って遊ぶ分身をみつめ、やがて検温に来た看護婦に声をかけられ我に返った。
 分身との関係がおかしくなってきたのは、受験が近付いてきた頃だった。それまであいつは僕がみるものだった。それがいつの間にか、僕があいつにみられるようになっていた。
 例えば真夜中、机に向かって勉強していると、背後から視線を感じる。母かと思い、振り返ってみても誰もいない。いつもの六畳間、ベッドの隣にある背の低いカラーボックスの上で、目覚まし時計の秒針が音を立てている。音量を小さく絞ったラジオの、ディスクジョッキーの声が不気味なつぶやき声のように感じる。僕はカーテンの向こうに隠れている分身を想像する。幼児のような笑顔を浮かべて窓の外に立っているそいつをみつめ、溜息をつく。そしてなにもなかったみたいに机のほうに戻って問題集のマス目を埋めていく。
 地元の大学に合格してからも、僕が一人になった瞬間を狙うようにして分身は姿を見せた。そいつはいつの間にか現れ僕のことを監視している。そして他愛もない子供じみたイタズラをしかけてくる。風呂に入っていると足をひっぱって湯船に頭を沈めたり、車で長い直進道路を運転しているときにハンドルを揺らしたり、大学の講義室でいちばん後ろの席に座っているとシャーペンや消しゴムを落としたり。もちろん、そんなのは僕の妄想に過ぎないとわかっていた。風呂や運転中の出来事は眠気から来たことだろう。講義中に落とし物をするのは気付かないうちに肘でも触れたのだろう。でも既に分身のことは僕にとって小さな秘密、小さな魔法の存在のようになっていて、あの雪の日のあいつの無垢な笑顔を消すようなことはどうしてもできなくなっていた。そう、それは傍目からすれば異常なことだったろう。病気と言われてもしかたがなかったかもしれない。それでもあの夏の日までは大きな問題ではなかった。僕が分身を殺したあの夏の日までは。
 それは病院で、検査結果を告げられた帰りだった。高校生のときに完治したはずの、持病が再発していた。ハンドルを握りしめ、交通量の多い真昼の県道に車を走らせる僕の頭の中で、いくつもの不安と恐怖が渦巻いていた。待ち受けている入院生活と、そのための休学。両親への重い負担、ぎくしゃくとした関係。灰色の空気が感情を鈍磨させ、過ぎてゆく時の重みを忘れていくあの感覚。ときとして涙ぐみそうになったとき、僕の腕になにかが触れた。視界を覆うフロントガラスの光景が、左右にぶれた。
 カッと頭に血が上るのを感じた。視線を向けなくとも、助手席に誰かが座っているのを感じた。僕の分身はニコニコと幼い笑顔でそこにいる。鍛えられた腕、引き締まった脚。健康的な身体をみせつけるようにしてそこに存在している。せめて、せめてその視線だけでも。お前に僕をみつめる資格なんてない。お前なんてただの幻だ、僕にみられてさえいればいいんだ。
 僕は念じた。自らの腕を動かすように、分身の腕に力を込めた。膝から持ち上がった手の平が、瞼を覆う。ヤツはまだ笑っている。まだ冗談だと思って微笑んでいる。自らを目隠しした分身の手の平に、僕は力を込める。ハンドルを握る手が汗ばむ。ガードレールを太陽の反射が走る。少しずつ指先の圧力を高めていく。眼球のぐりぐりとした感じが瞼の下でうごめく。分身は動かない。動けない。僕が動けないようにしている。微笑んでいる。まだ微笑んでいる。思い切って、指先を、一気に押し込める。
 次の瞬間、物凄い音がした。金属を引き裂くような激しい高音。僕は助手席を見た。すっぽりと両手首を眼窩に埋めた僕がいた。手首を埋めた眼から大量の血が頬へと流れていく。ガクガクと顔を小刻みに揺らしながら口を縦に大きく開けて叫び声をあげている。ちがう、これは幻だ。フロントガラスに視線を戻すと、赤信号の交差点に突っ込んだ僕の車に、巨大なトラックが迫ってくるところだった。衝突と同時に上下左右もわからなくなり、次に認識できたのは膨らんだエアバッグだけだった。ギャン、という音とともに助手席側のドアが歪み、車窓が粉々に砕けた。爆発音と同時に強い衝撃を受け、僕は意識を失った。
 目が覚めたときは、病院のベッドの上だった。身体中をギプスで固定されて、身動きひとつできなかった。見舞いに来た両親によると、手術は七時間もかかったそうだ。骨折だけでも三十箇所以上、発見時の僕はほとんど全身を炎に包まれていた。命が助かっただけでも運がよかった、母はハンカチで涙をぬぐいながら何度も繰り返し言った。
 傷が癒えるにつれて、リハビリ訓練が始まった。僕の指先は、他人のもののように感覚がなくなっていた。必死に力を込めても親指がひくひくと人差し指のほうに触れるだけで、積み木をつかむこともできず、持ち上げたと思ってもすぐに落としたりした。足も同じだった。ヤケドによって右足は太股から脛まで赤くひきつれができて、服でもシーツでも触れると痺れるような痛みがあった。そのくせ動かそうと思うと丸太のようで、ベッドから足をおろすだけでも腰をひねり腕をついて少しずつ動かさなければならなかった。
 身体をほとんど動かせない頃は夜が恐かった。最初の頃はヤケドと傷の痛みにうなされてそれどころじゃなかったけれど、それが消えるにつれて僕の分身がまだそこにいるんじゃないか、動けない僕に仕返ししてくるんじゃないかと恐かった。実際、何度か気配を感じた。ベッドの上、寄り添うようにして隣にいる誰かの感覚があった。けれど首さえ動かせない僕には本当に分身がそこにいるのか確認することはできなかった。リハビリで手足の感覚が蘇るにつれて、逆に分身の感覚は薄れてきた。もうあいつは死んでしまった、そう安心するのと同時に、胸の片隅が小さく痛むのを感じた。僕の小さな心の秘密は、こうして終わってしまった。
 両脚で立てるようになってから、リハビリをかねて病院の中庭を散歩するようになった。芝生の上を僕は裸足でゆっくりと歩く。ときどきふらつくけれど、杖はもういらない。もうすぐ走ることだってできるようになるだろう。真夏の光線に庭木の緑が目映い。木陰にベンチがある。あそこで一度休んでいこう。
 木陰には先客があった。ベンチから少し離れたところに、車椅子に座った老人の姿があった。青い縦縞のパジャマを着て、禿げた頭で僕を見ている。見覚えのない顔だ。恐らく車椅子を押してきたのだろう、看護士が後ろに一人ついていて、老人になにか話しかけている。しかし、老人はそれを無視して僕をみつめている。
 ゆっくりと歩みを進めながら、僕は勘違いに気付いた。髪の毛がないため遠目には老人に見えた。そうではなく、ヤケドで頭中の皮膚がただれているのだ。眉毛もなく、瞼が歪んで眼が細くなっている。小さな黒い瞳が僕をじっと見ている。右腕が肘から、右足が太股のつけねからない。
 不意に、車椅子の患者が身を揺らせ始めた。看護士が慌てたように患者の肩を押さえる。老人のような顔の患者は涎をこぼしながら赤ん坊のようにアーアーと声にならない呻きをあげる。
 そのとき、僕の腕が跳ね上がった。顔の高さまで上がった手の平を、僕は不思議な思いでみつめた。まるで自分の意志と無関係に腕が動いた気がした。けれど何事もなく、僕は腕を下げ、軽く前後に揺らしながら木陰のベンチのほうへ歩いた。



殺人削除
投稿日 2005/08/18 (木) 21:29 投稿者 水瀬利

私は王位などいらなかったのに、私が父様に似ていると言うだけで候補に入れられてしまって、大層お兄さまはお怒りになりました。
お兄さまは父様にも母様にも似ていません。その点お兄さまは不利なのだとお兄さまの側女たちは言いました。
私は今夜お兄さまの雇われた殺し屋か、お兄さま本人に殺されるでしょう。
それでもかまいません。
愚かな私は殺されたいのです。
お兄さまの怒るところが見たかった。
城の毎日は淡々として、さざ波すらない大海のどよめきに似ている。
けれど不安がある。
私はお兄さまとは口の交わりの経験がある。
私は殺されずに慰みの道具にされるのではないか。
「先代王によく似た形美しいお前は殺すのに惜しい。」
ああ、昨日の逡巡がまた訪れていたのか。
お兄さまは王となって、謀反人の疑いのある私を裁きに掛けていらっしゃる。
あんまりと言えばあんまり。
私にそのような力はありません。
宮中のお医者が、私の頭の働きは十歳くらいにしか発達していないと言ったそうです。
あるいは心の発達が遅滞なのだそうです。
「命が惜しいか?」
「お兄さま、王様、私は何も悪いことは考えていません。」
今気付いたのだけれど、私の身の回りの世話をするもの、友達、教育係がいません。
「質問に答えなさい、命が惜しいか?」
分かるように言って下さい。
「お兄さまが信じて下さいますなら、何もいりません。」

その後私はどうしたろう。
鉄格子の中で私の教育係が会いに来てくれた。
「・・さま。人に見られないようこっそり来たのです。どうか、あなたは辱めをうけるくらいなら命を絶つとおっしゃいました。これを・・・」
これは何?
教育係は走り去ってしまった。
お兄さまの靴の音がする。
私は教育係が渡した小瓶を手に持ち、口に含んだ。
お兄さまが私に口付けた。

あとは何も覚えていないのです。 





うだる削除
投稿日 2005/08/04 (木) 13:09 投稿者 水瀬利

空中を泳いでいる気分とはよく言うことだわ
すーっとしみこんで行く淡い風が私の体をなぜる
これは私の入れ物
私という概念は渦巻き雲が吸い上げて行く
ああ、消えて行くのね
私、消えるのね
あなたの中から解放されて私大脳で 静かに止まるのを待っている
最後の鐘が鳴る
空気に置き去りにされて
私、私の入れ物と同じだと言うことに気が付いたわ



暗闇バス削除
投稿日 2005/07/30 (土) 20:07 投稿者 小田牧央


 祖父が危篤という報せを受けたのは、旅行二日目の夕方だった。大学生だった私は親しい友人との夏旅行で、県境を二つ越えた海沿いの町に来ていた。
 辺鄙なところで、砂浜はあったけれど海水浴向けの店はなかった。漁港の周囲のほうが定食屋や干物を売る店でにぎわっていた。飲み会のために買い出しをしようと訪れた雑貨屋は、古びた木造家屋で六時には店を閉めてしまった。町の背後に山が迫っているせいか短い坂がとても多くて、人気のないセメントの壁の路地が迷路のように入り組んでいた。トタン屋根とテレビアンテナの並びはまるで堅牢な要塞で、国内のはずなのに東南アジアの見知らぬ村に迷い込んだような気さえした。
 その日、さんざ泳いで戻った途端に宿の人から知らせを受け、実家に電話をした。泳いだ後の肌は乾燥のせいか衣服がこそばゆく感じた。宿はほとんど民家と同じ作りで、玄関の格子戸越しに輝く夕焼けのオレンジが美しかった。黒電話のダイアルをまわしながら楽しかった一日を伝えようと言葉を考えたけれど、それらは母の一言で消し飛んでしまった。どこか現実感のないまま受話器を置き部屋に戻り、友人達に事情を告げた。時刻表を確認すると、今夜中に家へ帰るにはすぐに駅に向かう必要がある。大丈夫かと心配するみんなに笑顔を見せながらスポーツバッグに荷物を詰め、大慌てで宿をでたときには辺りがすっかり暗くなっていた。
 潮の香りを胸に溜めながら、ぽつんと侘びしげな外灯の下でバスを待った。まだ八時にもならないのに人通りは途絶え、民家から漏れる明かりだけが心を落ち着かせた。やがて力強いヘッドライトの明かりとともにバスが来て、身動ぎするような揺れ方をしながら停まると扉が開き、運転手がチラリとこちらを見た。青白い顔した若い男の人で、白手袋をした細い腕が弱々しく見えた。
 ステップをあがってバスに乗り込むと、省電力なのか明かりがなかった。窓ガラスからのわずかな光を頼りに、薄暗い通路に心細さを感じて座席の背もたれをつかみながら進んだ。変色したビニール製の座席カバーが、手の平へ吸い付くように感じた。奥のほうまで見渡してみたけれど、乗客は一人もいない。
 適当に中程の席に腰を下ろして、さあ出発と思ったのになぜか発車しない。どうしたのかと思っていると乗車口で影が動いた。大きな木箱を背負った行商人らしきお婆さんが運転手に何度も頭を下げている。発車時刻に遅れたお婆さんのために運転者が融通をつけたようだった。ゆったりとした足取りで進み、ごめんのうとすれ違いざま腰をかがめたので、慌ててこちらも頭を下げた。しわくちゃの顔が真っ黒に陽に灼けて、背中の黒っぽい箱は小さなお婆さんがすっぽり入り込めそうなほど大きかった。天辺を平たい板で蓋して、荒縄で十字に縛ってある。小豆色の大きな風呂敷で下からすくい上げるような包み方をしていたけれど、箱が大きすぎるから上半分が顔をだしていた。お婆さんの細い肩に風呂敷の端が食い込んで、とても痛そうに見えた。かなり重いのか、よたよたした小さな足取りで後ろのほうに進んで、いちばん後ろの席に座った。きっと大きな箱を置くには最後尾の広い席でないと無理だったからだろう。運転手がチラリと後ろを振り返って、やっとバスは発車した。
 しばらくは見覚えのある通りが続いたけれど、すぐにわからなくなった。昨日、駅から来たときと同じ道を逆に走っているだけなのに、全然わからない。あのときは、おしゃべりをしていて外の風景には注意してなかった。おまけに今は夜だ。曲がりくねった緩い上り坂を進むと、庭や畑のある家が増えてきた。不意に、私は現実感を失った。つい三十分前まで見慣れた顔と楽しく過ごしてたのに、たった一本の電話で突然一人きりになってしまった。狐に化かされた感じというのは、きっとこういうことを言うのだろう。それから、最近は疎遠になっていた祖父のことを思い、だんだん息がしにくいような苦しい気持ちになってきた。幼かった頃、裏庭の柿の木から落ちたことがあった。別にたいした高さではなく、ただびっくりして落ち葉の上に座り込んだままキョトンとしていたら、縁側にいた祖父が仰天して裸足で飛んできた。それがあまりに恐い形相だったので私は泣き出した。一緒に遊んでいた兄がワッと声をあげて逃げ出し、泣く私の扱いに困って祖父はオロオロしていた。旅行にでる前、具合が悪いと祖父は横になっていた。夏風邪だからと笑っていたのに。
 突然ブレーキの音がした。物思いにふけっていたせいで、頭を前の座席にぶつけそうになった。パスが停止して、乗車扉が開く。若い運転手が立ち上がって急ぎ足に降りていった。なんだろうと思ったけれど、バスは視線の位置が高く私の座席が真ん中辺りなのもあって、外になにがあるのかよくわからない。窓のほうを見ると水田が広がっていた。前後をうかがうと真っ直ぐに道路が延びている。月に照らされ、白く乾いている。いつの間にか村落を抜けて平坦な場所にでていたらしい。
 しばらく待ったけど、運転手は戻ってこない。お婆さんが立ち上がり、どうしたんやろねと私の顔を少しだけ見やってからバスを降りた。私は一人、取り残されたまま待った。
 大きな音がしたのは、それからすぐだった。ガシャン、という金属音。驚いて振り向くと、最後尾の座席にあったはずの木箱がない。あれ、と思って立ち上がり通路にでると、木箱は座席から床に落ちていた。
 一瞬迷ったけれど、床に置いたままにするのは悪い気がした。通路を進んで、木箱の傍に腰を落とす。落ちた衝撃で紐が緩んだのか、蓋が少しずれていた。暗がりの、闇に溶けたような木箱に腕を伸ばし、蓋の位置を戻す。なにかが指先に絡んだ気がした。黒いヌメヌメとしたもの。カビかな、と指先を目に近付けたけれど、暗くてよくわからない。気にせず木箱と風呂敷の端をつかみ、座席に上げた。凄く重くて、落ちたとき聞こえた金属音から想像しても、なにか金物の類が入っているらしい。
 人声がしたので立ち上がり、振り返ると、バスの乗車口に運転手の顔があった。その後ろから、なぜかお婆さんが泣き声をあげながらついてくる。通路を前のほうに進みながら声をかけると、怪我人だと運転手は短く応えた。よく見ると、運転手は背中に見知らぬ男性を背負っている。四十代くらいだろうか、頭部にグルグルと布きれが巻き付けてあり、血が染みていた。顔中に脂汗を浮かべて、意識がないのかジッと目を閉じている。お婆さんは頬を泣き濡らしながら、その男の背に手をかけ大丈夫かと声をかけている。道の真ん中に倒れていた、すまないが病院に寄り道する、そこをどいてくださいと運転手が言い、私は慌てて自分の座席に戻り通路を開けた。最後尾の座席に運転手は男を下ろし、横にさせた。通路にしゃがみこんで、お婆さんは男の手をとり拝むように自分の額に押し当てている。戻ってきた運転手に、あの人はお婆さんと知り合いですかと訊ねると、息子さんらしいと軽く首を傾げながら応えた。運転席に戻る後ろ姿、首筋を撫でる白い手袋の甲に血痕があった。半袖のワイシャツにも血の染みができている。
 折り畳み式の乗車口が音を立てて閉まり、バスは発車した。背後から響いてくるお婆さんの泣き声とつぶやきに私は座席で身を固くしながら、この後をどうするか迷っていた。列車には間に合わないかもしれない。緊急事態だから病院に行くのはしかたないとして、それなら駅ではなく宿に戻ったほうがいいかもしれない。あるいはどこか駅近くのホテルに泊まって、朝一番の列車に乗る手もある。折を見て、運転手さんに相談してみようか。混乱する思考の渦の中で、暗闇に潮の香りを感じた。海の残り香なのか、それともあの男性の汗と血の匂いなのか。そういえば、お婆さんの嗚咽が止んでいる。窓の外が暗い。異様に暗い。トンネルの中のように、黒一面に塗りつぶされている。
 ゴト、という音がした。通路に、小振りの金槌が落ちていた。握りは木製で、金属部分がボロボロに錆びている。
 水音がした。ポタ、ポタと水滴が跳ねる音。間隔をおいて、それは続いている。無意識に指先が膝を離れた。腰を上げ、屈み込み、暗闇に腕を伸ばす。重心がフラフラと揺れ動く感じ。バスの振動と、走行音。揺れる指先が金槌の握りに触れた瞬間、私の手首に皺だらけの腕がすがりついた。
 小さく悲鳴をあげながら身を起こした。通路に倒れる血塗れの顔があった。頭を割られたお婆さんが全身を朱に染めながら必死の形相で私を見上げる。顎先から滴る血が通路の血溜まりに落ちてポタリと音をたてる。その後ろ、最後尾の席、あの大きな箱が通路に倒れている。蓋が外れて中身がこぼれている。それは、刃物だった。ノコギリ、鉈、刀、斧、見たこともないほど大きなものから用途不明な変わった形状のもの、例外なく真っ赤に錆びた様々な刃物がそこに転がっていた。そしてその奥、座席の上になにかがあった。黒いなにかのぼんやりとした塊、バスの暗闇に紛れたなにか小さなものがそこにあった。私は半狂乱で立ち上がり、わけのわからない言葉を叫びながら通路を前に進んだ。身体が左右に振れるのが、バスの振動のせいなのか恐怖で足がすくんでいるのかわからなかった。やっと運転席まで来て、助けてと声をかけた。しかし運転手はぼんやりとハンドルを両手で握ったまま前をみつめている。なんとか気付かせようと若い運転手の細い腕を握ろうとした。
 そのとき気付いた。手に、金槌がある。通路に落ちていたあの金槌。いつの間にか拾っていた金槌。これをハンドルの上の運転手の腕にぶつけよう。そうすればきっと気付くだろう。何度も何度も打ち付けよう。この青白い顔した運転手の細い腕を叩き折ってやろう。それから脳天に叩き付けてグチャグチャにかち割ってやろう。そうだそうだ、さあやろう、さあやろう。
 次の瞬間、私は強い力で突き飛ばされた。バスの乗降口、低くなったステップの場所に崩れ落ちた。勢いで金槌が手から逃れてどこかに落ちる。見上げると、男がそこに立っていた。頭に布きれを巻き付けた男。お婆さんの息子だとかいう男性。運転手がゆるゆると私のほうを向いた。それはまるで運転をしながらの脇見という風ではなく、生気のない暗い瞳にはまるで意志を感じられなかった。男が運転手のほうにもたれかかるようにし、そしてもみあうような激しい動きがあった。バスが右へ左へと揺れている。起き上がろうとした瞬間、背後で折り畳み式の乗車口が音を立てて開き、バランスを崩した私は転げ落ちた。鈍い痛みとともに背中をアスファルトの感触が打ち、そのままゴロゴロと真横に転がった。続けて金槌の落ちる軽い音が耳に届き、身を起こすとテールライトが目と鼻の先をかすめた。周囲が暗く、顔をあげると高い位置に枝々からこぼれる月明かりが見えた。左右を木々に包まれた山間道路だ。遠くにポツリと外灯が立っている。そこめがけてバスは左右にカーブを描きながら遠ざかっていく。後部席にみっしりと詰まった黒いなにかがうごめいている。それは夏の黒い雨雲のように膨張と渦めく回転を繰り返している。警笛が鳴り響いた。外灯にバスは衝突し、金属のきしむ音とガラスの砕ける音がした。斜めにかしいだ外灯が数回明滅し、そして消えた。圧倒的な静寂と闇が私を包んだ。
 早く助けを呼んでこないと。暗がりの中で私は這いつくばり、アスファルトの上を手探りした。早く麓に降りて、誰かに救急車を呼んでもらわないと。私は暗闇の中に這いつくばって、転がっているはずの金槌を探した。



習作削除
投稿日 2005/07/07 (木) 00:52 投稿者 椿

死ノウ・・。
と思った瞬間に、
その苦痛を思い
下腹部を疼かせる強欲な我。



習作削除
投稿日 2005/07/06 (水) 23:40 投稿者 椿

人間が
ただの血のつまった肉袋だとわかる、
通勤ラッシュの急行列車。
ご馳走にありつくカラスだけが
生きた目をしていた。



後ろ足で遠ざかる削除
投稿日 2005/06/22 (水) 22:41 投稿者 小田牧央

 中学への通学路は高速道路沿いの畦道だった。みかけは平坦な道だけど本当は少し勾配があって、帰り道なら最初に勢いをつけておけば、けっこう長い距離を漕ぐことなしに移動することができた。向かって右側は見渡す限り田んぼ、左側は雑草だらけの土手で、春先とかうっかりすると口の中に羽虫が飛び込んできて困った。
 あの日は部活で遅くなって辺りがすっかり暗くなってた。高速道路の照明があるから真っ暗じゃないけど、高架の上にあるからハッキリ明るいというわけにいかない。真っ直ぐな道をいつも通り勢いつけてシャーッていう自転車の音を聞きながら、ちょっとポカンとしてた。田んぼのほうは闇ばかりで遠く並行して走る県道の外灯が並んでるのが侘びしかった。
 ぼんやり物思いにふけってると、遠くのほうの土手の様子がおかしいことに気付いた。ペンキでもかけられたみたいに色が紫がかった青に変わってる。あれ、目がおかしくなったのかと思ううちにそれはどんどん近付いてきた。
 花だった。すみれ色の細かい花が土手を埋め尽くしていた。それは美しいというよりは胸騒ぎを感じさせる光景で、新種のカビが葉にこびりついて蛍光を発してるのかとさえ思った。プラスチックの造花みたいに、なにか生理的に受け付けないもの、呑み込めない不自然さがあった。自転車に手足を添えたまま力を入れずブラリとさせて、あっけにとられたままその光景にみとれた。
 それ以来、僕は自然と人工との境界に齟齬を感じるようになった。廃墟とか古い水路とかは自然物より自然を感じるし、公園の芝生とか観光地の絶景とかは人工物より人工的だと思った。会社の用事で早朝のオフィスビル街を歩いたときは鳥肌が立った。それは、言葉にできない体験だった。小学生の頃、父に連れられて三千メートル級の夏山に何度か登ったときのことを思い出した。降るような星空を見上げたり日の出を迎えたりしたけど、もし自分以外の登山客がいなかったらビル街を歩いたときと同じ感覚が得られたかもしれない。
 大学生だった頃、帰りがひどく遅くなったことがあった。終電を逃した先輩を泊めることになって僕らは午前三時過ぎの住宅街を無言で歩いていた。それは六月で小雨がポタポタ絶え間なく続いていた。二人とも傘がなく濡れ鼠でトボトボ歩きながら気の滅入る湿度にじっと耐えていた。誰かの溜息をずっと吸い込み続けるような湿度に衣類を濡らすのが汗なのか雨なのかわからなくなっていた。僕はひどく悪酔いしていて吐き気が絶え間なく、細い路地の真ん中にときどき座り込んではスイマセンと繰り返し謝った。普段から無口な先輩は青白い顔をして煙草が吸いたい、煙草が吸いたいと口癖のように小声でつぶやいていた。
 自分が幸福ではないとか未来に確信が持てないとか六月らしい嫌な物思いを頭に過ぎらせながら歩いていたのだけどアパートまで大分近くなって安心したのか突然寒気に襲われて倒れるように冷たいアスファルトに膝をついた。後ろから追いついてきた先輩はぼんやりした瞳で僕を見下ろしたままなにも言わなかった。外灯が雨に煙って照らされる庭木の緑が艶々と美しく見えた。実家の母が電話口で長々と語る哀訴と愚痴が頭の中で渦巻いて自分がこうしていることも裏切りなんだぞとかそういうことを考えて自分で自分を静かに執拗に罵り続けた。
 顔を上げると、花びらがあった。ベゴニアの小さな捻れた花弁。紫がかった赤に、雨粒が珠をつくっている。狭い敷地いっぱいに並ぶ家々は庭がない代わりに鉢植えを窓辺や路地の隅に並べていた。先輩は腰をかがめて鉢植えのベゴニアの花をつまみ、捻り、むしりとった。手の平の中のむしりとったその花びらをしばらくみつめ、それから気のない素振りで道の真ん中へ投げ放った。そしてまた腰をかがめ、次の花びらを手にとる。僕はこの路地を毎日のように通っていた。熱帯を思わせるパンジーの原色に近い色や夜道で黙り込んでいるような椿の濃さに綺麗だと思いながらも違和感を感じていた。だからそれが人としてあってはならない行為だと理解していながらも、その花を愛しみながら育てている人々を傷付ける行為と知っていながらも、先輩のその残酷な戯れの行為に魅かれてしまった。
 僕はゆるゆると立ち上がると、別の鉢植えに近寄った。名前の知らない桃色の小さな花があった。冷たい花弁に指をかけ、ちぎった。左手にそれを移し、空いた右手でまた別の花を摘んだ。そうして集めたすべての花びらを、路地の真ん中に撒いた。先輩も気付いたのか、同じように摘んだ花は路地の真ん中に散り敷いた。僕らはそうやって言葉もなく冷たい雨の中で熱心に手を動かし続けた。やがて悪寒も消え、僕はただ一心に花々を採った。やがて路地の真ん中に、誰かを迎える道のように花びらの葬列ができていった。弱った雨が霧のように漂い、疲れ果てた僕はやがて見知らぬ家の軒先にうずくまり、紫と茶色を混ぜたような汁に汚れた手の平をみつめた。隣に立つ先輩は自分の仕事を満足して眺めるような目をしていた。不意に、先輩は酒を飲めないことを思い出した。酔いの所業ではなくただ気まぐれにこのようなことをする気持ちが理解できず、恐ろしいものを感じたが、夜に浮かぶ花々の道を眺めるうちに、そんな感情はやがて薄れていった。後ろ足でこの世界から遠ざかり逃げ去るような、そんな気持ちがしていた。



習作削除
投稿日 2005/06/06 (月) 01:05 投稿者 椿

私の赤い糸は小指ではなく、手首から続いていた。
これが永遠の恋なのか。



習作削除
投稿日 2005/06/06 (月) 01:02 投稿者 椿

かなわぬ恋が最上の恋だと、無くしてはじめて気がついた。
彼女の血に染まりし我が手を見つめ・・ただただ合掌。



習作削除
投稿日 2005/06/06 (月) 01:00 投稿者 椿

隣人の美しき娘の顔見たさ、
夜な夜なキリで壁を刺す。



習作削除
投稿日 2005/06/06 (月) 00:59 投稿者 椿

愛しい人の死に顔を、なんとなしに想像してみる。
人形のような表情に、ふと下腹部が疼いた。



残夢削除
投稿日 2005/05/28 (土) 11:02 投稿者 小田牧央


 夢に父がでてきた。嫌な夢だった。
 乾いたアスファルトに、白いチョークで矢印が描かれている。カーブを描いて細い路地を指していた。その先、電柱の根本に、次の矢印が描かれている。
 散歩の途中だった。朝、ひどく夢見が悪くて、悪夢というほど怖い思いをしたわけではなかったけれど、気詰まりしていた。家に閉じこもっているとよけいに鬱々とするようで、軽い服装のままサンダルをつっかけ外にでた。気温は低いけれど、湿度が高くて、歩いていると背中が軽く汗ばんでくる。
 惹かれるままに足を矢印のほうへ向けた。なんだろう、こんな細道をマラソンランナーが走るわけないし。道案内なら地図を渡すだろうし、子供の落書きだろうか。
 電柱脇の角を曲がると、砂場とスベリ台しかない小さな児童公園だった。車よけのコンクリート塊のそばに、次の矢印があった。
 携帯電話のコール音。耳にあてると、父の声が聞こえた。くぐもった、聞き取りにくい声。
「なあに?」
 苛立ちを、うまく隠せなかった気がする。押し殺すように小さく息を吐いた。
(声が近いな)
 不意に気付いた。この矢印は。
(近くにいるのか)
 この矢印は、父の家の方向だ。父と母がかつて住んでいた家。母が亡くなり、今は父が一人で住む家。
「散歩してるの」
 少し、間を空けて応えた。嘘をついてもしかたない。いい嘘も思いつかない。私は要領が悪い。
(そうか。散歩してるのか)
 公園をでる。次の矢印が右へ、左右を塀に囲まれた迷路のような路地を指している。
(父さんな、子供の頃を思い出してたんだ)
 私は要領が悪い。だから、遅れた。逃げるのが遅れた。家をでるのが遅れた。
(遠足のバスとか、列車な、窓際に座って、外を眺めるんだ。電線とかガードレールとか、歩く人のための白線のラインとかな、そういうのずっとみつめるんだ。隣の線路とか、排水の溝とか、ずっと続いてるやつな)
 あの家に引っ越したのは私が小学四年生のときだった。大学に勤めていた父の都合だった。狭苦しい二階の和室、窓を開けても空気の淀みが消えなかった。鬱蒼とした雑木に包まれ暗く、板の間を歩くと足裏が濡れているように吸い付くのを感じた。
 大学進学を機に県外に引っ越した兄は、結婚してからも同じ家に住もうとはしなかった。そして母が、死んだ。葬儀の席で母方の親族が兄をなじった。けれど、私は兄が父母を嫌っていたわけではないことを知っていた。幼い頃の記憶にある陽気だった母の面影は、あの家にはない。
(動いて見えるんだ。とまってるはずのものが、動いて見える。ひとつひとつは止まっていても、次々続くと動いて見えるんだ。電線も、ガードレールも、うねうね蛇みたいに踊り出してな。生命があるみたいに見える)
 またひとつ、角を曲がる。まっすぐの矢印。路面が翳る。ブロック積みの塀が途切れ、黴びて黒ずんだ板塀へと続く。マジックで「不在」と書かれたガムテープが郵便受けの蓋を塞いでいる。
 目がおかしくなったのだろうか。いくつもの黒い線が見える。宙に漂う何十本もの髪の毛のように細い線が、路地から玄関へと延びている。
(なあ、近くにいるんだろ?)
 家の前、と私は応える。変色したセメントの壁。アルミ枠に曇り硝子の引き戸。飛び石を渡る。雑草が裸の足首をくすぐる。
(おいで)
 母が寝かされていたのは台所だった。学校帰りの私がみつけたのはテーブルの下に倒れている母と、しゃがみこんでいる父だった。母の肩をつかみ、父はなにか呼びかけていた。意識を確認しているのだろうと思った。薄く白目を見開き頭をのけぞらせる母、指先がまだ痙攣していた。青白い首をぐるりと一周する桃色の痕。細い繊維を寄り合わせたような紐の痕。
(久し振りに顔を見たいな)
 きゅるきゅると、ひずむような音をたてて引き戸を開ける。いま、玄関にいるの、私は応える。こもった熱を頬に感じる。何十本もの黒い線が揺れている。ゆらゆらと揺れながら奥の暗がりへと続いている。白いチョークの矢印が、あがりかまちに描かれていた。まっすぐ奥を指している。廊下の奥、襖の手前に、次の矢印があった。暗がりにそれはうっすらと光を放っているように見える。
(なあ、父さん思うんだ)
 サンダルを脱ぐ。足裏に、冷たい感触。一歩、次の一歩。濡れているような感触。淀んだ空気が肌を圧迫する。
(電線も、ガードレールも、動く乗り物から見ていると生きているように見えた。乗り物が止まれば、電線もガードレールも当たり前のモノに戻った)
 後になって気付いた。台所に鴨居はない。人間一人だけの体重を支えられるような、紐をかける場所がない。母が首を吊ることのできる場所がない。あのとき母はまだ生きていた。指先が震えていた。首を絞められた直後だった。それなら、母はどこで首を吊ったのだろう。
(人も、同じじゃないかな)
 襖の引き手に指をかける。しっかり、力を込めて、引く。
 障子がすべて閉ざされている。障子紙を通して差し込む柔らかい光が曖昧な陰と入り交じっている。脱ぎ散らかされた衣類、弁当やペットボトルのゴミが雑然と散らばっている。かすかに樟脳の匂いがした。真ん中に敷かれた布団、薄いタオルケットを顎先まで被って横たわる父。痩せた身体、薄い白髪頭、虚ろな目で天井をみつめている。
 畳の上、私の足先から一歩先に、携帯電話が転がっていた。
(動いている人間からは、生きているように見えるのさ)
 耳にあてた私の携帯と、同時に声がした。
(止まれば、そうじゃない。電車が、バスが、止まろうとするとき、ゆっくりスピードを落としていくとき、そのときになってやっと本当の姿が見えるのさ。ゆっくりゆっくり、さあ止まるぞっていうときになって、やっっと本当の姿が見えるのさ。ゆっくりゆっくり、さあ止まる)
 腰を屈める。父の携帯を拾い上げる。通話を切る。手にとったそれをしばらく眺め、畳の上に投げ落とす。
「父さん」
 大学進学を機に一人暮らしをしたいという私を、父はとめなかった。母の死から表情を失っていった父が、あのときだけ苦しそうに顔を歪めた。あれは父を置き去りにする娘の冷たさに対する感情だったのか、それとも。
 膝を畳につけ、タオルケット越しに肩を揺さぶる。父は、一心に宙の一点をみつめている。なにかがそこにあるかのように、じっとみつめている。
「しっかりして。お願い、起きて」
 手の平に、奇妙な感触がした。父の肩をつかんでいるはずの手。なにかがうごめく感触。
「父さん、早く……なにを見てるの?」
 肩を揺らす振動で、タオルケットがずれた。
 あらわになった寝間着の襟から、首筋へと、黒い線の先端が這いでてくる。昆虫の触覚のように、衰えた肌を探り、続けて別の線が次々と群がってくる。
 父の首が、こちらを向いた。まばたきしない眼。私ではなく、私のずっと背後をみつめる眼。死へ近付いていく者の視線。ゆっくりスピードを落としていく視線。
(なにも)
 かすかに、唇が動いた。ささやき。
(なにもみえない)
 タオルケットの端をつかみ、一気に剥ぐ。次の瞬間、爆発するように黒い線が膨れ上がり天井まで届いた。弓のように反る父の身体が、何百本もの黒い線に引き絞られた父の身体全体が赤黒く変色し、弾けた。飛び散る血肉が布団を、私の衣服を、手足と頬を汚した。
 群れ暴れる黒い線の乱舞をみつめながら、私は畳の上を後ずさる。引きちぎれた父の首が布団から畳の上へと転がった。雲が通ったのだろうか、障子紙の陽光が呼吸するように翳った。

http://www3.vc-net.ne.jp/~longfish/iron/



誰かがみている削除
投稿日 2005/04/17 (日) 22:02 投稿者 小田牧央


 祥子さんはいい子です。かけっこや鉄棒は苦手ですが、学校の勉強なら誰にも負けません。本が大好きで、いつもなにかを読んでいます。大人しくて、お友達とのお話のときも黙っているか、とても小さな声になります。
 ある晩のことです。祥子さんはお父さんとお母さんに連れられ、レストランに行きました。大好きなオムライスとチョコレートパフェを食べて、とても幸せな気持ちになりました。
 帰り道、お母さんに手を引かれながら、細い路地を歩いていました。バニラの香りと甘いチョコレートの味がほんの少し残っているような気がしました。角を曲がると、ビルの影から月が顔をだしました。半分より少し膨らんで、薄い雲にぼんやりと、にじむような光でした。
「どうしたの、祥子。空ばかり見て」
 お母さんの問いかけに、祥子さんは恥ずかしくなってうつむき、なんでもないと答えました。でも、お母さんがどうしたの、と続けて訊ねるので、小さな声で言いました。
「あのね、お月さま、オムライスみたいって思ったの」
 なんだかまだオムライスを食べたいと言うみたいで、祥子さんは恥ずかしかったのです。
「おつきさま?」
 不思議そうな顔で、お母さんは空を見上げます。前を歩いていたお父さんが振り返り、祥子さんをみつめ、それから夜空を見上げました。
「おつきさまだって?」
「うん。黄色くて、ふくらんでて、オムライスみたい」
「本当のお月さまは、丸いんだよ」
「知ってるよ」
 祥子さんは科学の本も読んでいました。月が地球の周りを回っていること、満ち欠けは太陽の反対側にできる影ということも知っていました。お父さんとお母さんに、勉強好きな祥子さんは、一生懸命に説明しました。
 それから何日かが過ぎました。ある日、前触れもなくおじさんがいらっしゃいました。遠いよその町に住んでいるおじさんは、本当にときどきしか訪れてくれません。面白いお話しや不思議な手品をみせてくれるおじさんが、祥子さんは大好きでした。
 楽しい映画を観て、レストランでお食事して、祥子さんはとても幸せな気持ちでした。手をつないで夜の帰り道、またあの曲がり角に来ました。期待しながら夜空を見上げました。今夜もオムライスだったのです。
 そこには数日前と同じ、いいえ、もっと膨らんで、もっとオムライスにそっくりな月がありました。わあ、と小さく声をあげて、それからハッと口を手の平で押さえて頬を赤らめました。お母さんは面白かったことをすぐになんでもおじさんに話してしまうのです。月がオムライスに似てるなんて思ったことを、おじさんがお母さんに知らされていたらどうしましょう。きっと食いしんぼの女の子と思われてしまうに違いありません。
「月が、見えるんだね」
 振り返ったおじさんが、笑顔でそう言いました。黄金色の卵にそっくりな月を見上げながら、祥子さんはうなずきます。
 歩きながらおじさんは拳固を口元にあて、なにか小さく呪文のような言葉をつぶやきます。拳固を額に、そして左右の額にあてました。
「見ててごらん」
 スーッと上から下へ、広げた手の平を夜空に滑らせます。大きな手の平が月を隠し、更に下へと滑ります。
(あっ)
 心の中で、小さく声をあげます。おじさんの手が通り過ぎたそこは闇ばかりで、小さな星がひとつだけ輝いていました。月が消えてしまったのです。
 手品だよ、おじさんは微笑みながら言いました。
 その晩のことです。真夜中に祥子さんは目を覚ましました。いいえ、眠っていたわけではなかったのです。ずっと、おじさんのことを考えていました。おじさんの手品が忘れられませんでした。
 喉が渇いて、起き上がると裸足で廊下を歩きました。台所で水を飲もうと思ったのです。大人達の声が聞こえてきて、台所の引き戸の前で立ち止まります。お酒を飲めないおじさんと、お酒を飲んだお父さんが楽しそうに話しています。ぼんやり引き戸をみつめて、それから引き返しました。
 廊下の途中、おじさんが泊まる部屋がありました。襖が開いていて、明かりのない暗い部屋が祥子さんの瞳に映りました。闇に小さな光があります。
 それは、螢のように淡い光でした。引き込まれるように部屋に入ると、窓辺に寄ります。障子の上、小さなでっぱりにハンガーがかけられ、上着の右ポケットの底が光っています。
 そっと腕を差し伸ばし、ポケットに指先を沈めます。冷たく硬いものに触れて、指先につまみ引き出します。手の平に光るそれを、祥子さんは静かにみつめます。
 月でした。それは小さな月でした。手の平のくぼみにあるその光は、指先さえ照らすことができません。音もなく、熱もなく、少しでも揺らすと消えてしまいそうに儚い光です。
 ぼんやりと光がかすみました。涙が溢れて、頬を伝います。消してほしくなかった。月を消してほしくなかった。大好きなおじさんに月を消してほしくなかったのです。
 どうしたの、声がしました。見上げると、不思議そうな顔をしたおじさんが立っていました。恥ずかしくて、言葉にできなくて、涙に頬を濡らしながら、祥子さんは黙っておじさんを見上げます。
 笑顔のような、泣くような、不思議な顔をして、おじさんは少し腰を落とし、祥子さんの手の平から小さな月をつまみます。口元にそれを運び、フッと息を吹きかけると、それは光を失いました。部屋の暗さが急に増し、障子紙が青白く光りました。
「あのね、祥子ちゃん」
 暗闇に、まるで泣き出しそうなおじさんの顔。
「月なんて、もう、いまはないんだよ」
 ずっと昔はあったんだ。ずっとずっと昔、恐竜がいた頃。でも地球から月は少しずつ離れていって。小さく、小さくなって、ある日とうとう見えなくなってしまったんだ。
「消えてしまったの?」
 地球から遠く離れて、遠い遠い宇宙のどこかに飛んでいってしまったんだ。きっとまだ宇宙をさまよってる。でも、遠く離れすぎて、もう地球から見ることはできないんだ。
「でも私、お月さま、見た」
 それはね、もうそうなんだ。
 祥子ちゃんはご本をたくさん読むだろう。月のことも本で知ったんだね。そして、月のことが大好きになったんだね。
 小さく祥子さんはうなずきました。
 確かに大昔はあったんだ。夜空に浮かんでいた。でも、今はもうないんだよ。祥子ちゃんが見たのは、まぼろし。大好きで大好きで、本当はそこにないのにみてしまったまぼろし。おじさんはね、祥子ちゃんのお父さんに頼まれて、もうそうをなおしに来たんだ。
 おじさんは指先につまんだ、光のない玉をみつめました。これはね、手品の道具なんだ。本物の月じゃない。消してみせたのは、この偽物の月。本物の月は、はじめからなかった。それは祥子ちゃんの心の中にあったんだ。
 偽物の月をみつめるおじさんの顔は、辛そうで、苦しそうで、祥子さんはうつむき、青白く光る畳の冷たい表をみつめました。
「おやすみ」
 おじさんの声に、小さくおやすみなさいと応え、祥子さんは顔を上げないまま廊下にでました。涙が一粒、また一粒、頬を流れました。自分の部屋に戻り、祥子さんは手の平を顔にあてて、声をあげずに泣きました。
 それから年月が過ぎました。何年も何年も経ちました。もう子供ではない祥子さんは、お父さんやお母さんと離れて一人で暮らしています。おじさんとは、もう何年も会っていません。
 祥子さんには、秘密があります。今でも、夜空に月をみるのです。本でも、テレビや映画でも、月の知識や姿を、神秘と伝説と詩と想いをみかけます。それらはすべて自分の思い込みだと、祥子さんは知っています。すべてが嘘で、長い年月と共に自分の憧れが夢想を積み重ねたのだと知っています。例えお友達が月のことを話しても、祥子さんは黙って静かに聞いています。なにも話しません。それが自分の頭の中で作った幻だと知っているからです。
 ただ春の夜、だらだら坂を下る帰り道、葉桜の枝の隙間からオムレツのような月を見上げるとき、この世界に私と同じように月をみている人がいるかもしれない、そんなことを思うのです。



黒い海削除
投稿日 2005/03/20 (日) 17:29 投稿者 小田牧央


 学生の頃、夜の海で泳いだことがある。泳いだというより、漂ったに近いが。
 海辺の町だった。数人の仲間と砂浜で花火をした。酔った男ばかりで情緒のない馬鹿騒ぎをしていた。誰かがふざけて波に飛び込み、数人が続いた。Tシャツにジーンズの軽装だったこともあり、私も後に続いた。誰かが波の上に花火だけ突き出し、沖へ沖へと泳いでいく。黒い波に散る火花が目に焼き付いた。
 奇妙に身体が軽く感じた。最初は冷たかった海水も、慣れてきたのか生暖かった。薄曇りなのか星も月もない夜で、わけもわからず暗闇を懸命に泳ぎ、疲れて手足に力が入らなくなった。何度か水を飲んでしまい、ハッとして周囲を見渡すと波打ち際から騒ぎ声が響いてくる。ロケット花火が半円を描いて飛んでいった。あおむけになり、泳いでいるのか浮かんでいるのかわからない動きで私は波に揺れていた。
 気が付くと暗闇にいた。視界のすべてがコンクリートと鉄に埋め尽くされている。
 等間隔に並ぶ信号が、地下鉄線路を照らしていた。線路と鋼鉄の逆U字型した梁がゆったりカーブしながら奥へと続いている。その黒く塗りつぶされた闇の中から小さな音が響いてくる。乾いた金属音が不連続に続いている。音に誘われるまま歩くとカーブの向こうから人影が現れた。年老いた駅員が線路の上にあぐらをかいてなにか作業をしている。白い髭を生やし、瞼を細めて忙しく手を動かしている。白い手袋が操る銀色の鋏が信号の青い灯を反射する。
 それは映画のフィルムだった。細長いフィルムをロールから少しずつ引き出しながら駅員は慎重に一コマずつ切り離している。乾いたコンクリートの上にフィルムが次々と落ちる。するとあぐらの老人の背後から毛だらけの細長い腕がニュッと突き出された。小さな猿が姿を見せフィルムを素早い動きでつまんだ。器用に一枚ずつ拾い、残さず集めていく。
 やがて近付く私の足音に気付いたのか猿が顔を上げた。猫のような縦長の瞳が金色に輝き、歯を剥き出しにして笑う。皺だらけの細長い手の平を上向きにそろえて並べ、フィルムの山に息を吹きかける。吹き飛ばされた映画フィルムはなぜか連凧のように空中で一列に整列し、線路上を私めがけて押し寄せてくる。カーブの向こう、暗闇の奥に小さく光が灯り、それは見る間に大きくなっていく。列車のライトが一列に並ぶフィルムを貫き巨大な影が線路上で動き出す。次の瞬間、モノクロームが描く光と影のドラマが私の視界を覆い尽くし、瞳に強い痛みを感じて瞼を閉じた。
 眩暈がした。手足が消えてしまい、頭部と息をする腹部だけが残された気がした。瞼を開くと、月も星もない夜空があり、おぼろな意識で生暖かい夜の海に漂っていた。潮騒に包まれる私と波の境界は曖昧で、夢の残滓を遠い心地で眺めていた。見上げる夜空の隅で、なにか白いものが通り過ぎた。雷光のようだが、稲妻はない。雲から月が垣間見えたのだろうか、そう思う間もなく再び一瞬の光。巨大な銀色の輝きが遙か上空から波の上へと落ちていくのを確かに見た。鋭い金属音。私は暗い空をみつめる。
 今度はわかった。それは鋏の刃だった。巨大な銀色の刃が夜空を切り裂き黒い海の上へと振り下ろされる。刃が降りたその向こう側は闇ばかりだ。私は闇の向こうへと漂っていく。銀色の刃に刻まれて、私は誰かがみる夢になるのだろう。



冷たい粥削除
投稿日 2005/02/12 (土) 18:44 投稿者 小田牧央

 喉の痛みには昨夜から気付いていた。やがて咳がでて、頭痛もしてきた。職場の空気は乾燥しているし、疲れているときの頭痛はよくあるので気に留めていなかった。妙に寒気がして、缶コーヒーでも飲もうと立ち上がり初めて身体の怠さに気付いた。
 多忙な時期ではなかった。インフルエンザかもよ、と同僚が身をかわすそぶりをしながら笑った。午後休をとり、地下鉄に乗った。朝の混雑が嘘のように空いている。こめかみを押さえ頭痛に耐えながら、保険証の置き場所を思い出そうと努めた。
 団地の九階にある部屋に帰り、首尾よく保険証をみつけ、近所の病院に行った。もうその頃には、熱があるのは間違いなかった。インフルエンザと診察され、薬をもらって帰った。身体を少し屈めるだけでも頭に痛みが走り、雪道を行くような歩き方になった。団地に帰り、市役所に勤める妻に電話した。早めに帰ろうかという不安げな声に、子供じゃあるまいしと笑って応えた。私の当番だった娘のエリカを保育園に迎えに行くのを頼み、寝間着に着替えて布団を敷き横になった。やっと楽になれた気がした。
 八畳の和室に窓はない。明かりを消すと部屋があまりに暗いので、リビングに面した襖を少しだけ開けた。三つ川の字に布団を並べると狭いものだが、薄暗がりに浮かぶ宙吊りの照明器具が寒々しく感じる。顔を横に向けると、カレンダーの日付が目に留まり、畳の上には娘の玩具が転がっている。胸苦しくなり、咳をして天井を向いた。なかなか布団が暖まらない。足がひどく冷たい。亡くなった母が毎晩のように湯たんぽをしていたが、今は気持ちがよくわかる。脹ら脛で互いの足裏を暖めたりもするのだが、すぐに冷たくなってしまう。それでいて胸の辺りが汗ばむほど熱くなってきて、確かな意識もないまま眠りについた。
 どれほど時間が過ぎただろう。玄関口で物音がした。ぼんやりとした頭で瞼を薄く開き、襖から差し込む光線具合から、夕暮れ間近だと知った。やがて壁の向こうの足跡が奥へと移動し、リビングでコートを脱ぐ妻の姿が半開きの襖から覗けた。ちらちらとこっちを窺っている。やがて和室に入ってきて、屈み込み、私の寝顔をじっと見入っていた。薄目を開けていた私はそのとき夢心地で、起きていることを伝える気になぜかなれなかった。妻は不安そうな、しかしどこか無感動な顔をしていた。薄く化粧をした顔が薄闇に冷たく浮かんでいる。やがて私は瞼を閉じた。立ち上がる妻の足音が畳の上を遠ざかっていき、襖が柔らかな音をたてて閉じた。違和感を覚えた。エリカはどうしたのだろう。私の代わりに妻が迎えに行くはずだったが。やがてキッチンから水を流す音がして、フッと意識が遠のいた。
 足音で目が覚めた。パタパタと走り回る小さな足音。瞼を開き、ゆっくりと起き上がる。途端に鋭く頭痛がして、顔をしかめた。胸の辺りで寝間着が汗に濡れている。それでいて足首だけが氷のように冷たい。軽い吐き気を覚えながら立ち上がり、襖を開ける。明るく照らされた無人のリビングがあった。キッチンから人声がする。テーブルに妻が座っている。私はそちらに歩み寄った。テレビには夕方のローカルニュースが映っている。幼児用の小さな器にスプーンを差入れながらテレビを眺めている。黙々と冷たい粥を口に運んでいる。ひどく寒い。エアコンの排気音はするのに。
 妻が振り向く。私の姿に気付き、笑顔で軽く驚きの声をあげる。目が覚めないから食べちゃった。そう言って、ほとんど空になった器を示す。崩れた形の米粒が器の内側をゆっくりと滑り落ちる。妻は立ち上がり、椅子の背にかけてあったコートを着ながらハンドバックを肩にかける。うがい薬、もうないの。買ってくるね。他に欲しいものある?
 静かに私は首を振り、玄関へと遠ざかる妻の姿を見送る。頭の中で血管が脈打つのが痛みとしてわかる。ゆっくりと言葉が浮かんできて、エリカはと問いかける。玄関扉を半分押し開いて振り返る妻が不思議そうな顔をする。なんでもないと応える私に妻は笑顔でいってきますと告げる。閉ざされた扉の金属が触れ合い、かすかに音を立てた。
 子供の声がした。
 振り返る。テレビでは天気予報が流れている。胸の内側を冷たいなにかが流れていき、酸っぱいものが舌の根に触れた。リビングを横切り、和室の襖を開ける。暗がりの真ん中に布団があった。膨らみがゆらゆらと揺れている。ふざけたような笑い声がして、小さな腕が布団から飛び出し手の甲が畳を叩いた。細かな指の造りがぶるんと震えた。
 襖を閉じる。部屋の中から、幼児の笑い声が聞こえてくる。喉の奥から込み上げる咳の発作を懸命に押し殺し、ふらつく足取りでキッチンに戻る。妻のいた椅子に座る。激しい頭痛にこめかみを親指で力一杯押さえながらテーブルに肘をつく。冷えた粥の匂い。足裏が冷たい。耐えきれない悪寒に顎が強張り震えが頭部から背筋へと伝わっていくと次第に消えてゆき、四肢から力が抜け、私は瞼を閉じた。
「パパ?」
 目を開く。私を見上げるエリカの顔があった。見下ろす。粥の器がない。
 肩にブランケットが掛けられている。ちゃんと布団で寝てよ、と妻がなにかを差し出した。朱塗りの椀に満たされた粥から湯気が立ちのぼる。エリカが腕をテーブルに伸ばし、椀を横取りする。赤い発疹だらけの腕。
 うつっちゃったじゃない。そう言って妻は笑った。



宛先不明につき返送削除
投稿日 2005/01/16 (日) 19:13 投稿者 小田牧央


 秒針が聞こえる。
 小さく、小さく、時を刻んでる。
 薄暗がり、階段の踏み板が音階みたいに並んで、遠くにある磨りガラスの入った玄関の扉が小さい。昼下がりの冬の陽がまだらに砕かれて白く輝いてる。ここは冷えて寒い。着慣れてるはずの制服なのにごわごわした感じで、膝を抱えて頬を埋めるスカートの粗い生地が痛い。
 台所から小さな影が現れて、廊下を横切り玄関でスニーカーを履く。金魚の水槽より背の低い年の離れた弟が大きな頭を揺らして玄関扉の真ん中にある郵便受けを開ける。爪先立ちして、小さな細長い郵便受けから外を覗く。一心に外を見詰めてる。
 何気ない様子で、弟は手の平を郵便受けに入れた。次の瞬間、毛糸のセーターを着た幼い腕が、強く外から引っ張られたみたいに、郵便受けに肩まで飲み込まれた。大きな頭がガクンと後ろに折れて、粘土みたいに柔らかくなった身体がへなへなに崩れた。ぎゅっとすぼまった身体が小さな郵便受けにズルズル呑み込まれていく。頭、胴体、手足。ぐにゃぐにゃになって捻れて絡まって縮んで押し込まれて消えていく。
 ぱたん、と郵便受けが閉じた。
 静かになった。とても静かになった。
 私は後ろを見上げた。階段の上からは、なにも物音がない。
 少しだけいなくなっても、きっと気付かれない。逃げるわけじゃない。そっと立ち上がる。ゆっくり段を下りる。踏み板のきしむ音がしないよう、爪先立ちで慎重に。
 そんなの諦めてる。逃げるなんて、とっくの昔に諦めてる。どこにも行けるとこなんてない。廊下に降りる。サンダルを履いて、玄関をでる。明るさが目に痛い。一方通行の細い道、石塀と瓦屋根と電信柱の長い列、誰もいない。風はないけれど、サンダルの素足がすうすうする。雀の鳴き声。姿もないのに。
 かたん、と音がして。
 道路の向こうの、赤い郵便ポストの。
 銀色の差入れ口が、開いて。小さな指。ポストの内側から差入れ口を持ち上げてる白い指。闇。細長い暗闇。指が外れて、差入れ口が閉じる。
 かたん。
 歩み寄る。一歩、また一歩。近付きながら右腕をゆっくりと前へ差しのばす。静寂、まだ静寂。頬で感じる空気の冷たさ。動き始める差入れ口。細く小さな子供の指。眼。丸く見開いたひとつだけの瞳。意志も感情もないお面みたいな真ん丸い眼。
 弟じゃない。そう気付いた瞬間、差入れ口から長い腕が飛び出た。先端から根本まで均等な太さ、蛇のように関節がない。ひっこめようとした私の腕に絡み付き、強く引かれる。抵抗する間もなく肩まで郵便ポストに呑み込まれた。背中のほうで脂じみたものがじんわり広がって、砕けたみたいに膝が折れ曲がる。首ががっくり後ろに折れて道路の向こうに玄関扉が見えた。口の中まで脂みたいのが広がって歯が全部内側に向くの舌先で感じた。顔の皮膚がだらんと垂れ下がって地面がズズーッと離れていくと視界が急に歪んで薄暗くなって意識が遠のいて鼻がつんとして、かたん、という小さな音がした。
 歪んだ空があった。曲がった電信柱が遠ざかって、それが磨りガラス越しの景色なのがわかった。小さな照明カバーと金魚の水槽と並んだ靴と傘立てに重力を感じて足を突くけれど柔らかいそれはくにゃくにゃに崩れて私はそのままタイルに手を突いて倒れてしまう。
 なにか、軋む音がした。
 顔を上げると、階段に小さな人影。弟が大きな頭を後ろに曲げて、腰を浮かして上半身を捻って、二階のほうを見上げている。半開きにした口、泣き出しそうな横顔。なにかが降りてくる、床板の軋み。
 私はサンダルを脱ぎ捨てると台所のほうに逃げた。背後から階段を転げるように駆け下りてくる弟の泣き声が聞こえた。



無名墓碑銘削除
投稿日 2004/12/19 (日) 21:27 投稿者 小田牧央


 脳の働きについて人間と動物を比較研究するとき、科学者は実験動物について実際よりも頭がよいと判断する傾向があるという。他者に自我があることを推察する能力、それこそが人間の優れた能力のひとつだが、それゆえに動物も人間と同じ認識や考える能力を持っているのではという思いにひきずられてしまう。
 十五年前、客先常駐していた。朝、少し早めに出勤し、休憩コーナーで一服するのが習慣だった。隣は屋上を見下ろせる背の低いビルだったが解体工事が進んでおり、足場と防水布の向こうに剥き出しの鉄骨と行き来する作業員の小さな姿が見えた。
 毎朝そんな光景を眺めるうちに、奇妙な感情を覚えるようになった。静かな荒廃感、わずかな痛み。やがて更地になった隣の敷地を見下ろしながら気付いた。それは、弔いの感情だった。色褪せた壁、装飾的なレリーフ、排気ダクト、ブラインドのおりた窓。崩され消えゆくそれらに無意識のまま愛着を覚えていたのだ。
 業務上の都合で早朝、休日出勤をした。作業は簡単に終わり、外にでると夜明けが来たのか明るかった。雲も少なく、わずかに濁りのある冬の陽光がオフィス街を包んでいた。コンクリートとガラスの壁面に、他のビルがすっぽりと写り込んでいる。
 足を駅とは反対側に向けた。アスファルトの敷き詰められた空間が広がっている。人影はなく、静かだった。立ち塞がる周囲のビル壁を鋭利な明暗境界線が斜めに過ぎる。歩道の向こうを稀に通る乗用車さえ、自動操縦で動いているのでは思わせるなにかがあった。視界に入るほとんどすべてが人工物なのに、なぜこんなにも非人間的なのか。この複雑な情感はなんなのか。
 背後に気配を感じた。振り返ると、作業服を着た一人の男が立っていた。無帽で、ほとんど白髪だ。黙って足下を見下ろしているようだったが、不意に腰を落とした。胸ポケットから金属製のなにかを取り出そうとしている。
 興味が湧いた。近寄ってみると、老人が手にしていたのは鍵だとわかった。丸い柄の、標準的なシリンダー錠の鍵。アスファルトが四角く途切れ、アルミ製の扉が鈍く光っている。小さな鍵穴に、老人が鍵を差し込み、半回転させた。
 傍らに立つ私に気付かないのか無視しているのか、老人は顔を上げないまま鍵を抜き、金属扉の小さなへこみに爪をかけ引き開ける。小さな空間があるようだった。向かい合わせた人差し指と親指を差し込み、なにかを探っている。やがて指を引き抜きながら老人がゆっくりと立ち上がる。両目を見開き、厳しい視線でつまみあげた小さな白いものをみつめている。
 最初、それがなんなのかわからなかった。小石かと思った。しかし朝陽を受けて輝く小片の質感と形状が、記憶を刺激し、認識を浮かび上がらせるのを感じた。それは、乳歯だった。子供の小さな抜けた歯だった。
 視線を感じた。眉を寄せ、怒りを抑えるような表情で、老人が私を睨んでいる。とまどう私に、老人が腕を伸ばした。銀色の鍵と、乳歯。二つの物体を私に突き出したまま、微動だにしない。静脈の浮き出た手から、意味もわからないままそれらを受け取る。老人が、一歩後ろに下がった。視線を私の顔と地面の間で往復させる。ややあって、理解した私はアスファルトに片膝を突いた。
 パネルは開かれたままで、乾いたコンクリートに覆われた小さな空間がそこにあった。親指と人差し指の間に乳歯をつまみ、そっと差し入れる。指を引き抜き、扉を閉じ、鍵を差し込む。
「それでいいのか」
 顔を上げる。逆光を浴びて黒ずむ老人の姿があった。
「本当に、それでいいのか」
 なにを言っているのだろう。わけがわからない。そもそも私がなぜこんな無意味なことをしなければならないのか。あなたがこんな訳のわからない作業をさせているんじゃないか。腹立ちを覚え、私は顔をうつむけると、鍵を半回転させた。
 金属音がした。周囲で、巨大な物体が動く気配がした。この世界のなにかがなにかと衝突し、そして通り過ぎていく。
 光の質感が、一瞬にして変わるのを感じた。視線の先に金属のパネルはなく、リノリウムの床があった。軽く浮かせた指先に銀色の鍵を下向きにつまんでいる。半回転させたときのまま手首が捻れている。 ゆっくりと、立ち上がる。デスクがあった。書類の束が乱雑に散らばっている。電源が落とされたデスクトップパソコン、明かりのない無人のオフィス。全面ガラス張りの壁から夜明け前の薄暗い街が見渡せる。見知らぬビルの見知らぬ会社の見知らぬフロア。
 軽く眩暈がした。視界を光の点がいくつも明滅しながら流れ落ちていく。空っぽになった心に言葉が湧かず、それが危険な状態であることを認識する高次の意識があった。私は狂おうとしている。見知らぬ世界に滑り落ちようとしている。足が動いた。低次の意識が、動物的本能が、筋肉を制御していた。ひょこひょこと奇妙な動作で私はデスクの間を通り過ぎ金属扉のノブをつかむと手前に引き開けた。
 非常灯がエレベーターホールを照らしていた。薄闇の中を進み、ボタンを押す。階数表示が移動し、扉が左右に開く。鏡はなく、四面をクリーム色に塗られた鉄の空間があった。中に入り、一階へのボタンを押す。扉が閉じると、軽い浮遊感がした。視線が操作パネルの上をさまよう。パネルの下部に、小さな金属扉があった。なにかに命じられて動く腕の筋肉が跳ね上がり鍵の先端を鍵穴に差し込む。
 重い音がした。既に鍵は半回転していた。顔面が硬直する。肩が痛い。しかし鍵を引き抜く指先が金属扉の小さなへこみに指をかけ引き開ける。乾いたコンクリートの小さな空間に白い小片が転がっている。乳歯ではなかった。それは、首の骨のひとつであることを後に知った。
 それから十五年、二百回以上鍵を使ったが、あの日の乳歯だけ私はいまもみつけることができていない。



レフト・ビハインド削除
投稿日 2004/11/14 (日) 18:13 投稿者 小田牧央

 フロントガラスに迫るアスファルトの流れを、映画館のスクリーンのようにどこか遠い気持ちで眺めていた。見渡す限り続く荒れ野に乾いた道が緩やかな起伏を描きながら続いている。対向車も信号も人家の明かりさえもない。ただ星と月明かりだけが私達を見ていた。
 熱病のもたらす悪寒と吐き気が今は嘘のように引き、毛布にくるまれた身体の暖かみにとろとろと浅い眠気を覚えている。運転席の義兄は黙り込み時折不安そうな瞳を向ける。大丈夫、まだ生きてます。そう応える代わりに私はそっとうなずく。姉さんのように死んではいません。
 気が付くと瞼を閉じていた。いけない、義兄を心配させてはいけない。私が死んでいると誤解させてはいけない。額の中心に力を込める。眼輪筋が引きつるけれど、瞼は動かない。姉の顔が脳裏を過ぎる。譫妄のうちに死んだ姉の土気色した頬。義兄の長い嗚咽と姉の名を呼ぶ声。私はもう死んでいるのだろうか。
 闇が水平に裂かれ灰色の壁が視界に映る。近すぎて焦点が合わないが、柔らかな素材らしいことが感じる。これはなんだろう、フロントガラスがあったはずなのに。いぶかしむうちに壁は遠ざかり、それが革製のクッションだとわかる。ああ、そうか、これはヘッドレストだ。理解が追いつく間にも、すべてが遠ざかる。バックウィンドウを擦り抜け、トランクの上を滑り、アスファルトの上を低く飛ぶ。私と義兄の後頭部、淡く灯る車内灯、夜の縁へと向けてテールライトが遠ざかる。
 待って、置いてかないで。懸命に力を込めた腕を跳ね上げる。遠い車内で毛布が跳ね上がり私の腕が義兄の顔にぶつかる。鼻筋と硬い唇を手の甲に感じた。車が蛇行し道路を逸れると短い土手を駆け下りる。スピードを緩めぬまま立木に衝突し金属が悲鳴をあげながら身を縮める。白熱の火柱が燃え上がり辺りを照らした。
 なんてことだろう。私は土手を駆け下りる。続けて数回、破裂音。運転席の義兄はぐったりとハンドルに身をもたせかけている。なんてことだろう、私は草むらをかきわけながら灼熱と光に足を急がせる。少し歪んだドアに手をかけて開くと、炎に照られた義兄の顔は額が割れて流血している。早く、早く、気の急くままにシートベルトを外そうと腕を伸ばしたとき、助手席から火のついた毛布の塊が起き上がり憎悪に歪んだ顔を見せた。
(この人は、わたさない)
 私ではなかった。血塗れの姉がいた。閃光に目がくらみ全身に衝撃を受け、次の瞬間なにもわからなくなった。



それはひどく雨の降る晩で削除
投稿日 2004/10/10 (日) 19:02 投稿者 小田牧央


 それはひどく雨の降る晩で、うつむき歩く私には、行き交う人々の無言の脚と、濡れたアスファルトに砕ける銀の飛沫が見えるもののすべてで、聞こえるもののすべては雨音だった。
(もう、冷えたかな)
 首筋に傘の柄の金属の冷たさを感じながら。
(もう、冷えたよね)
 帰路に足を向ける私は昔のことを思い出す。それはひどく雨の降る晩で、フロントガラスに雨粒が銀の線を描いて飛び込んでくるのを眺めながら、運転席の彼は子供の死体を見たとつぶやいていた。地下鉄の駅をでて左右に工場の高い塀が続いている細い路地を雨煙の向こうから乳母車を押す女性が傘も差さずに歩いてくる。雨よけなのかビニールで覆われた乳母車の中をすれ違いざま覗いてみると幼い男の子が鉛色の顔で目を閉じていた。あれはきっと死んでいたと思う、あの母親は死んだ男の子を運んでいた。どこに連れて行くんだろうと彼は不思議がっていた。
 冷たいものは素敵だ。冷たいものは本当にそこにある。暖かいものはダメ。暖かいものは本当はそこにない。ただのまぼろし。
 傘を閉じてマンションのエレベータに乗り込む私は階数表示が自分の部屋の階へと近付いていくのをみつめながら彼からの最後の電話を思い出す。それはひどく雨の降る晩で、彼はこの世界の実在についてデカルトの哲学をいつまでも語り続けていた。僕は幻をみているんだ。雨の中で車に轢かれた男の子はタイヤの下になった瞬間ザクロのように弾けてキラキラ輝く緑色はキウイのようだった。それはすべて幻で濡れたアスファルトにばらまかれたのは男の子の肉塊だとわかっていたのだけど超自我が僕を狂気から守るために世界のすべてを美しくしてしまった。銀の雨はダイアモンド、濡れたアスファルトは黒曜石、ビルの壁は大理石、けれど空は灰色で、ルビーのような血が水たまりに滲んでいくのを僕はずっとみつめてた。
 実在ってどこにあるんだろ?
 扉を開けて部屋に入ると生ゴミの臭気と湿度の高い生暖かい空気が頬に触れて思わず外に戻りたくなった。濡れた傘を玄関に広げたままそっと置いて朧気な薄闇を進む。冷蔵庫の前に立って腰を屈めて冷凍庫の扉を引き開ける。冷気がこぼれ落ちていく奥の暗がりに霜の降りた黒い毛皮が丸まっている。
(よかった)
 私は両腕を差し伸ばし冷凍庫の奥にあるそれを手にとる。
(冷えてる)
 手の甲に霜が降りかかり融けていく。左手で胸にそっと抱き寄せながら右手で頭を撫でてやる。霜が融けて胸に冷たさが染みていく。かすかに身動ぎして黒い毛皮は頭を上げて私の顔をみつめる。闇の中にいた瞳がすっかり丸くなって可愛い。冷蔵庫の扉を背にして座り込むと私は冷たい猫を胸に強く抱きしめる。頬を猫の耳にくっつけて毛の感触と融けていく霜の冷たさを感じながら猫という名前の実在を抱きかかえる。
 それはひどく雨の降る晩で、押しつぶされるように死を選んだ彼を思い出しながら、私は自分が涙ぐんでいるのを感じる。冷たい猫を抱いたまま、暗い部屋の中で雨音に耳を傾け続ける。



暗夜道中削除
投稿日 2004/09/26 (日) 14:54 投稿者 小田牧央

 夜道で見知らぬ他人に会うのは嫌なもので。
 外灯の下に座り込む若い女性がぶつぶつ独り言をつぶやいていたり(なんのことはない、携帯電話で話しているだけなんですが)歩く速度が同じで、追い越すのも苦労だし自分だけ留まるのも癪だし、そういう人に限って曲がり角のたびに自分と同じ方向に曲がって会話ひとつないままずっと一緒だったり、まあ家に帰ってしまえば忘れてしまう程度のことなんですが、嫌なものです。
 アパートの近くによく寄るコンビニがあるんですが、そこまで行く途中の脇道に高架がありまして、ガードが古い煉瓦積みで半円形の幽霊トンネルみたいなんです。昼間だったらなんともないんですが、夜になるとそこらは外灯も少なくて、まあ脇道を覗きさえしなければいいんですけど気になって顔を向けてしまうことが何度かあって、まあ一昨日の夜まではなにもなかったんですけどね。
 昨日の夜は違いました。幽霊じゃないですよ、小学生くらいの男の子です。背中に鞄を背負って野球帽被ってました。遠くですからね、表情とかまでわかりません。しょんぼりという感じで煉瓦の壁に背もたれてました。
 別にいいんですけどね、子供がそういうところにいたって。でもどうしてあんなとこに一人で待ってるんでしょう。寂しくて暗いとこなんですよ。待ち合わせとも思えないですし、時間をつぶすだけなら他に賑やかなとこあると思うんですけどね。
 ええ、別にずっと見てたってわけじゃないんです。だってコンビニ行く途中だったんですから。明るい道を通って嫌なことなんか忘れてコンビニ行きました。
 いつものことなんです。雑誌眺めて、カップラーメンの新商品がでてるの手にとって、綿棒切れてたの思い出して探して、レジに持ってきました。金払って、ビニール袋受け取って、さあ帰ろうと思ったところで気付いたんですよ。あの店員、割り箸入れてたかなって。
 案の定でした。別にいいんですけどね、割り箸くらい。まあ慣れちゃうと面倒なわけで、他にレジ待ってる客もいなかったですし、店員にお箸くださいって言ったわけです。
 店員は、エプロン着た、なんかボケッとした感じの顔の長い男でしたけど、なんか屈み込んでレジの下を覗いたりなんかして、スミマセン、ちょっと待っててくださいって奥に引っ込んじゃいました。おいおい、割り箸くらいレジ入る前に補充しとけって思いますよね、普通。
 どれくらい待ったかな。一分も待ってないかもしれないですけど、音に気付いたんですよ。金属の音。スーッていう、滑走する音。ガチャッて、なんか落ちる音。
 棚の奥、覗いたらね、床に落ちてたんですよ、缶コーラが。ほら、あるでしょう? 壁際の冷蔵の清涼飲料水コーナー。棚が斜めになってて、奥から店員が補充すると、ツーッと缶が手前に滑ってくるタイプの。あそこに落ちてたんです、缶コーラ。
 奥に引っかかってたのが、なんかの拍子に滑って、勢い余って落ちた、そんな風でした。まあ、親切するに越したことはないですから、元に戻しといてやろうと思って手を伸ばしかけたんですよ。
 スーッとね。
 またコーラが、ガチャン。
 顔を上げたら、棚の向こうの、薄暗い奥に野球帽があって。
 小さい手が、缶コーラを棚の端っこに乗せて、スーッ、ガチャン。
 やばいな、と思いました。回れ右ですよ。街を歩いてるだけでもよくあるじゃないですか、そういうのって。ああ、見ちゃいけないな、早く離れないとな。そう思う瞬間って、よくあるじゃないですか。
 ちょっと小走りになって、ビニール袋がガサガサ鳴って、ガラス戸に肩ぶつけるみたいにして飛び出ました。
 アッと声あげましたね。真っ暗なんですよ、外。
 外灯が消えてるんです。家の窓も全部真っ暗なんです。ホントに真っ暗、コンビニの明かりが届かないところは真の闇だったんです。
 回れ右ですよ。中に戻ろうとしました。でも、開かないんです。取っ手握って、ガチャガチャ揺らしても開かないんです、さっきそこ通ってきたのにね。
 コンビニの中、レジに店員がいました。割り箸手にして、俺のこと探してるみたいでした。そのとき、棚の奥から、野球帽被った子供がでてきたんです。
 え? 別に普通の小学生でしたよ。背中に鞄なんて背負ってません、ガード下とは、別の子です。だって女の子でしたし。
 当たり前じゃないですか。ガード下の男の子が追っかけてきたんなら、途中で気付くでしょう?



きらきらちかちか削除
投稿日 2004/08/08 (日) 13:29 投稿者 小田牧央

 逆光に叔母の顔は黒ずんで見えた。パイプ椅子の上で小さく身を縮め、ハンカチでしきりに額を抑える。
 病室の窓の向こうには、雲一つない青空が広がっていた。入院が長いと、ガラスの向こうの光量と熱量を想像できず、透き通るような空の青が美しく感じられる。
 ベッドで半身を起こす私は、母が昨夕見舞いに携えてきたバニラアイスを舐め舐め、叔母の話に耳を傾けていた。カップのバニラに木匙をあてがうたび、しゃく、とかすかな音を立てる。
 パイプ椅子ね、よく見かけるの(と叔母は言った)。青い背もたれのね、銀色の、パイプ椅子。どこにでもあるでしょ。ほら、これもね(叔母は少し腰を浮かせて視線を自分の座るパイプ椅子に向けた)、どこにでもあるのよね。
 静かな昼下がりだった。盆休みで、ほとんどの入院患者が一時帰宅し、同室なのは三十代半ばの男性だけだった。入り口近くのベッドで、仰向けに寝間着姿で寝転び、頭に包帯を巻いて、週刊誌かなにかを眺めていた。
 昼間の列車でね(と叔母は続けた)窓の外眺めてると目がちかちかしてくるの。隣の線路とか、看板とか、陽の光が反射してね。車の屋根とか窓ガラスとかぴかぴか光って目が痛くなるの。目を閉じても赤くてきらきらしたのがずっと残っててね、血の気が引いてスーッと身体が倒れそうになって、気が付いたら目眩じゃなくて列車が駅に着いたとこだったのね。列車が止まって扉が開いて若い女の人がたくさん乗り込んでくるんだけどみんなどうしてかパイプ椅子を持ってるの。パイプ椅子をこう胸に抱きかかえてお日様がきらきら反射して、驚いてよく見たらパイプ椅子なんて持ってないの。アクセサリーとか、バッグの金具が反射しただけだったのよ、暑いとホントにダメね。
 気が付くと、私は空になったカップをみつめていた。いつの間にか食べ終わったようだった。口の中に甘い味と強い香りが残っている。顔をあげると、空のパイプ椅子があった。
 叔母は窓際に立っていた。額にハンカチを押し当て外を見下ろしている。逆光に背中が黒ずみ、なにか嫌なものを見るように顔をしかめている。
 裸足の足をベッドから下ろす。リノリウムの床が冷たい。ゆっくり重心を移動して立ち上がると、まだ麻酔が覚めきらないのか、頭が勝手にあらぬほうへ回転するように感じた。水の中を進むように腕を大きく振りながら、叔母の横に並ぶ。
 白く灼けたビルの群れと、病院の前庭の緑、その狭間をゆったりとカーブを描きながら県道が伸びている。二車線の道路脇、並木もないアスファルト敷きの歩道に、人影があった。パイプ椅子に座り、恐らく通行量の調査をしているのだろう、計数器をいくつも横につなげたものを膝にのせ、車が通るたび記録している。陽射しが強いのに、帽子を被っていない。怪我をしていて被れないのだろう。頭に包帯を巻いている。
 背後で小さな音がした。振り向くと、ベッドから起きあがった男が雑誌を脇に置き、パイプ椅子に身を沈めるところだった。どこにあったのか、計数器をいくつも横につなげたものをとりだし膝にのせる。入り口に寝間着姿の叔母が立っている。薬の副作用で頭髪が抜け、頬がこけている。強い怒りに目を異様に大きく見開いている。リノリウムの床を裸足で進み、こちらに迫ってくる。男が計数器のレバーを押す金属音がした。不意に視線の向きを変え、私のベッドの傍らにあったパイプ椅子の背もたれをつかんだ。痣のような黒い染みが手の甲にいくつも浮いている。思わず視線を逸らすと窓から差し込む光に目がくらんだ。
 目眩がした。たたらを踏む。遠くから蝉の声がした。乾いたアスファルトを見下ろしている。強い日射しが全身を灼きつくす。膝にビニール袋がぶつかり乾いた音を立てた。見舞いのバニラアイスが入っている。ゆっくり身体を起こし、麦藁帽のツバを手の甲で軽く上げる。箱形の巨大な建物を見上げる。陽光を受け白い壁が輝いている。
 ガラスの割れる音がした。金属製のなにかがきらきら輝きながら落ちていく。パイプ椅子だ。一瞬でそれは前庭の向こうにかき消え、遅れて轟音が響いた。
 視線を上げると、割れた窓ガラスから飛び出す叔母の寝間着姿があった。



浮かぶ瀬もなし削除
投稿日 2004/07/10 (土) 21:22 投稿者 小田牧央


 嫌な夢をみた。目覚めたときには、昼下がりの街を歩いていた。灼熱の陽光が路面を白く乾かせている。裏通りは閑散としていた。背の低い鉄筋コンクリートの建物ばかり左右に並び、古びた壁が陽光に強く輝いている。
 痛いほどの熱を受けながら、悪夢の残滓が滑り落ちてゆくのを感じた。ネクタイの中程を手の平で押さえ続ける。汗に布地がよじれていく。腕にかけた背広が蒸し暑い。
 この先に喫茶店があったはずだ。半地下の涼しい店だ。細い路地を折れ曲がる。タイピンをどこに落としてしまったのだろう。ずっとネクタイを押さえていなければならないのだろうか。締め付けるワイシャツの襟が汗に濡れそぼっている。
 一階がガレージになったビルがある。シャッターが開かれ、古本がセメントの床に並べられている。鳥打ち帽の男性が並べられた本を黙って見下ろしている。品定めしているのか、後ろ手を組みながらゆっくりと歩く。ガレージの前には短い庇があり、それが作る日陰に麦わらを被った老人が座り込んでいる。半袖白シャツに赤銅色の肌をして、長い木の棒の一端を手にしたまま宙をみつめていた。
 そうだ、この隣だったな。私は少しでも日陰を進もうと庇の影を進んだ。座り込む老人が持つ棒をまたぎこす。道路先に投げ出された先端が視界に入った。先の尖った鉄片がくくりつけられている。槍先のようなそれは、強い日射しに鈍く輝いていた。
 日陰を抜ける。タイルの貼られた床がある。地下への階段に足を踏み入れようとして、思わず立ち止まる。二段下りたところに、静かな水面があった。洪水でもあったかのように地下への階段が浸水している。
 水道の閉め忘れでもあったのだろうか。かすかに漂うカルキ臭を感じながら半腰になって階段を覗きこむ。薄暗い奥底に、細く開いている木製の扉が見えた。営業中の札が下がっている。
 札が揺れた。扉の隙間から、ゆらりと白い物が這い出てくる。胸の高さ辺りを漂いでてきたのは、毛の長い大型犬だった。馬のように細長い顔をして、細長い手足を前後に軽く伸ばしたまま身動ぎもせず、時間をかけて犬は水の中を浮き上がってくる。
 肩に手を置かれた。振り向くと、棒を手にした老人の姿があった。水の中の犬を鋭い目つきで睨んでいる。脇に退くと、老人は階段を一歩下り、片手に棒を構えた。
 後わずかで水面にたどり着こうとする瞬間、犬の額めがけて老人は棒を振り下ろす。鋭い鉄片が毛皮を突き抜け深々と突き刺さり、血の筋が煙のように浮かび上がる。棒を両手で操り、老人は犬の身体を水面から引きずり上げた。柄のついたモップのようだ。槍を刺したまま老人は後ずさりし、犬の身体を道路まで引きずっていく。
 ふと横を見ると、いつの間に来ていたのか古びた文庫本を手にした鳥打ち帽の男性が笑顔で老人のほうを眺めていた。
 路地の真ん中で老人が棒を引き抜く。犬の全身が一度大きく痙攣し、ぬたりと身体を捻らせた。そのまま動かなくなったと思ったが、突然犬は蛇のようにぬらぬら身体を左右に捻りながら道路を進み出した。鉄片のないほうを地面について、老人は濡れそぼった犬が遠ざかるのを黙ってみつめている。
 かすかに、水音がした。足下を見下ろすと、タイルの溝を水が一筋流れていく。
 目をやると、先程まで顔を出していた段も水面に沈み、溢れんばかりになっている。鳥打ち帽がニヤニヤと笑みを浮かべて水底を見下ろしている。ドアの隙間から長い髪がたなびいている。ゆっくりとそれは伸びてくる。うつむいた女性らしき頭部が、半袖のワンピースに四肢をだらりと垂らしドアの外へ姿を見せた。ゆっくり水面目指して漂ってくる。振り返ると老人はまだ道路をこちらへ来ようとしているところだった。幾筋もの水がタイルを濡らす。
 鳥打ち帽の男が声をあげて笑っている。女の背中が水面に到達する。溺死体のように動かないままかと思えたが突如腕を階段につく。腕だけで這いずる女が水面から顔をだす。ダラダラと口から水を吐き続ける。目から鼻や耳から水がボゴボゴと音を立てて溢れ出てくる。髪にネクタイピンを挿している。走り出した老人の足音が背後から聞こえた。喫茶店のドアを、うかがうような生白く水膨れした手がつかんでいる。



めがね思慕削除
投稿日 2004/07/09 (金) 03:17 投稿者 藤原真秀

よのなかにたへてめがねのなかりせばめぐのこころはのどけがらまし



捻れ踏切削除
投稿日 2004/06/13 (日) 20:10 投稿者 小田牧央


 叔父の見舞いに行った帰り、踏切に捕まった。日傘を差していても、ハイヒールの上で脹ら脛が灼かれる。夏の先触れのような陽気だった。
 大きな駅が近いせいだろう。やっと列車が通り過ぎても、すぐに矢印形の赤いランプが点滅する。黄色と黒のだんだらの遮断機が、ずっと沈黙していた。
 線路の向こう側では、葬式帰りなのか、黒いスーツに黒いネクタイの男が立っている。痩せぎすで、暑さに耐えながら目を細めている。
 かれこれ十分以上は過ぎている。
(つかまっちゃったなぁ)
 ハンカチを握りしめ、額に当てる。
(今度は、逃げられないかもなぁ)
 小学三年生の時、隣のクラスの女の子が、電車に轢かれて死んだ。
 あれは秋だったと思う。夕暮れ時、家族で車に乗り外食にでかけた。踏切待ちで、前の座席の両親が、ここでその女の子が死んだと小声で話していた。車窓越しに見上げる空が菫色に染まっていた。
 それ以来、踏切待ちのたび思うようになった。捕まってしまった。わけもなくそう思うようになった。そして待つのが長引くと、もう逃げられないかもという考えに変わる。死んだ女の子の顔も名前も覚えてないのに、なぜかそう思う。
 解体工事をしているのか、間隔を置いて遠くから鈍く轟音が響く。鳴き声が聞こえ、見上げると、警報機に烏がとまっている。漆黒の羽根が陽光に輝く。
 視界の隅でなにかが動いた。黒いスーツの男が、遮断機の下をくぐっている。思わず声がでかけたが、呑み込んだ。列車の音は聞こえない。
 吐き気がした。額の汗玉がひとつ、頬を滑る。口許をハンカチで押さえる。
 踏切は避けていた。ずっと避けてきた。どこか畏れがあった。理由のない畏れだった。迂回路を探し、どうしても必要なときだけ渡った。待ち時間が長くなるほど、吐き気が込み上げ頭の中に霞がかかるのを感じた。
(つかまっちゃったなぁ)
 男が、線路に足を踏み入れる。
(逃げられないかもなぁ)
 身体の向きを変え、男は、線路に沿って歩き出す。
 警報機が鳴り出す。目眩がした。点滅する赤ランプ、警告音、線路の上を歩み去ってゆく黒いスーツの背中。
(列車が)
 断続的な響き。近付いてくる音。
(来る)
 左右に視線を走らせる。どちらにも、列車の姿はない。頭蓋の中で、なにかがよじれる。口の中に酸い味。日傘を下げて耳を澄ます。
(つかまった)
 列車の音が、背後から、押し寄せてくる。警告音が蒼天に響き渡る。



邪眼削除
投稿日 2004/05/09 (日) 16:54 投稿者 小田牧央


 また眼が悪くなった。しかも、変なふうに。ピントが合わないのではなく、歪む。視界が歪んでしまう。眼に力を入れるとまっすぐのはずのものがやんわり弧を描く。普段は大丈夫だが、よく見ようとみつめているうちに曲がってくる。それも日を重ねる程に曲がり具合が増してくる。
 眼医者に行った。真っ暗な部屋で(眼医者は一日中真っ暗な部屋にいて人の眼ばかり診ている)眼医者はペンライトで俺の眼を照らして調べた。水晶体がおかしくなっているらしい。
「眼は水晶体の厚みを調整してピントを合わせるのです。しかしあなたの水晶体はちょっとピントを合わせるのに厚くなりすぎるのですね。水晶体専門のところを紹介しますから、そちらを訪ねてみてください」
 あまり眼に力を入れないように、と眼医者は注意した。参ったなと思いながら目薬を受けとって往来にでた。昨晩雨が落ちたせいで、五月にしては寒い。空は一面曇っている。
 だらだら坂を駅に向かって下る。左右は大学とか文化センターとか大きな施設ばかり。ぽっかりと空間があって、人の気配もなく寂しい気がする。風邪なのか空気の冷たさなのか、みぞおちに寒気があって顎が強張る。
 歩道橋を上がる。二車線の道路を車が列になって過ぎてゆく。手すりのペンキが剥げて金属が錆びている。滑り止めに埋め込まれた金属が鈍く光る。最後の一段を踏み越えると、高架線のホームと同じ高さだった。このまま歩いてホームに直接行けるんじゃないか、そんな錯覚があった。
 電車がとまっている。しかし、いくつもの背中でホームが埋め尽くされている。いつもより混雑しているようだ。遅れているのだろうか。人身事故だろうか。みつめていると電車とホームが弓なりに垂れ下がるのを感じた。いかん、と思って目を逸らす。視線を下げる。車の屋根がいくつも通り過ぎる。鼻がツンとして血が匂う。
 鼻血だろうか。顔を上げながら鼻筋を軽くつまむ。眼があった。いくつもの眼。ホームの人々が皆こっちを見ている。ゆっくりと視界が膨らむ。なにを見ているのか。振り返る。建物の連なり、アスファルト、並行している歩道橋、蒼鉛の空、鮮やかな赤信号の光。変わったものはなにもない。
 怒号がした。視線を戻す。誰もいないホーム。発射する電車。空っぽの電車。手すりの輪っかが揺れる。頭の中でなにかが爆ぜて生暖かいものが広がる。目眩。鼻筋を押さえている手の平に濡れた感触。
 手の平を離す。鮮やかな赤が塗れている。指と指の隙間から覗く人影。
何人もの人々が歩道を駆け上ってくる。眼を閉じて瞼を押さえる。水晶体を押し戻さねば。瞼を開く。センターラインが波打っている。タイルに点々と鼻血が散る。青黒さを秘めた赤。
 たたらを踏む。背中を手すりに預ける。立っていられない。駆け上がってくる靴音。額に冷たいものを感じた。雨だ。ずるずると背中が滑る。関節で弾けるような音。誰かの声。手の甲を、ズボンの膝を、次々と雨が打つ。再び声。階段を駆け上がってきた男がまっすぐ迫ってくる。捻れた視界の中で憤怒の表情がゆっくり渦を巻く。手足が異常に伸び、歩道橋が捻じ曲がる。魚眼レンズを覗くように左右の階段が視界の端から端まで見える。雨が首筋を打つ。胴をひねる。道路と雨雲が視界を横断する。眼に力を込める。手すりの柵をつかむ。柵のコンクリート土台が掌に触れる。眼球が熱い。強い吐き気。柵と柵の間を視界が通り抜ける。道路に向かって落ちてゆく。センターラインが迫る。
「逃げたぞ!」
「追え!」
 遠くから声が聞こえる。だらだら坂を転げ落ちる。道路と空が幾度となく反転する。歩道橋が視界を過ぎる。群衆が、眼球を失った俺の身体を道路に突き落とそうとしている。



みえない削除
投稿日 2004/04/11 (日) 08:09 投稿者 小田牧央

 子供の頃からそうです。私には強迫神経症の気があります。自分で決めたルールを、自分で破れない。口紅の色を変えたことがありません。変えたい気持ちはあるのですが、できないんです。雨の日、傘は左手で持ちます。左腕がどんなに疲れてきても持ち替えることはできません。椅子に座ったら、きちんと爪先をそろえます。ときどき、ちゃんとそろってるか確認します。そうしないと不安になるからです。
 そんな意味のない規則がいくつもあります。新しい規則ができる日もあれば、ある日突然解放されることもあります。占いは遠ざけてます。信じてはいません。でも、あの呪いのような言葉が頭の中にいつまでも残って、それが辛いし怖いんです。
 目の見えないフリをすること、それが最近できたルールです。最初は、駅のホームとか街路とかに視覚障害者を導くための黄色い点字ブロックがあると、必ずそこを歩かないといけないという規則でした。そのうち、私は目が見えない、目が見えないフリをしないといけない、そう思うようになったんです。
 もちろん、本当に瞼を閉じてしまうわけにもいきません。あくまで些細な、見えないフリだけです。階段ではずっと手すりをつかんだまま上り下りします。街の中で、このままだとぶつかりそうだな、と思っても相手が避けてくれることを期待して真っ直ぐ進みます。アパートに帰っても、しばらく灯りを点けません。表の商店から差し込む薄明かりの中で、誰も見ていないのに演技を続けるのです。
 飲み会で遅くなった晩のことです。酔いのせいもあったのでしょう、駅に向かうつもりだった私は、いつの間にか見知らぬ地下街で迷っていました。
 もう日付の変わる時刻で、どの店もシャッターを閉ざしていました。人影もなく、通路によっては灯りがほとんど消され、薄暗くなっていました。私は心寂しさを覚えながら、ときどき見かける地下街の地図を確認しては、駅があると思われる方向に歩いていました。
 そうしているうち、細い通路に迷い込みました。薄汚れた壁の古い通路ですが、点字ブロックだけ真新しく黄色に輝いています。私はいつものルールを思い出し、瞼を細め点字ブロックを踏みしめ、酔いに思考を停止させたまま無言で歩き続けました。
 天井は低く、腕を伸ばせば指先が触れそうです。蛍光灯が黄色く濁っています。剥き出しの配管が延々と続いています。歩きながら、蛍光灯と配管が続く消失点を真っ直ぐみつめていました。やがて、その消失点にぽつんと人影が浮かび上がりました。近付くに連れ、だんだんと仔細がわかってきます。白衣を着た背中のようです。なにかを抱え込むように背中を丸め、両腕を忙しく動かしています。
 不意に、奥のほうで灯りがひとつ、消えた気配がしました。白衣の人影よりもずっと向こうのほうです。蛍光灯の寿命が来たのかもしれません。
 タイル張りの左右の壁は亀裂が入り、ところどころ剥落しています。広告スペースもあるのですが、なにか引き剥がした跡があるだけでチラシ一枚ありません。白衣の人影が、背中を伸ばしました。肩を自分で揉みながら、首を左右に傾けます。髪は白く、どうやら高齢のようです。
 またひとつ、奥のほうで蛍光灯が消えました。私は真っ直ぐ歩き続けます。白衣の老人が横に動き、それまで身体に隠れていたものが見えるようになりました。そこにあったのは、革張りの黒い椅子でした。それも歯医者にあるような、高さや背もたれの角度を調整できる椅子です。椅子の後ろ側に老人は移動し、また腕を動かし始めます。ちょうど椅子に誰かが座ったときの頭部の位置で、老人は両腕を動かしています。
 老人との距離は、もうだいぶ縮まっていました。しかし私はあえて目を逸らし、通路の消失点をみつめていました。なぜなら私は目が見えないフリをしなければならず、だから老人の存在にも気付いていないフリをしなければならないからです。
 やがて、音が聞こえてきました。白衣の衣擦れ、鋏の金属音、ガラス瓶の触れ合う音。視界の隅で私は老人を観察しました。ベッコウの櫛と銀色の鋏を老人は忙しく操っています。整髪料なのか金属製のスプレー缶やガラス瓶が白衣のポケットで揺れています。誰もいない革張りの椅子には肘掛け部分にサイドテーブルがあり、髭剃りクリームを入れた容器と剃刀が並んでいます。奥のほうで、蛍光灯がまたひとつ消えました。この通路の消灯時刻が来ているのかもしれません。しかし私は目が見えないのですから困ることはないはずですし灯りが消えていくことも気付かないのです。
 老人が、動きを止めました。
 点字ブロックの手前に立って、私のほうを見ています。
 けれど私は目が見えませんので暗闇の消失点から目を逸らせないまま歩き続けるのです。蛍光灯は奥から順に次々と消えていきます。老人は無言で私をみつめています。けれど私は気付かないフリで老人の横を通り過ぎるのです。老人の息が聞こえました。私は暗闇に向かって歩きます。早く駅に向かわなければなりません。
 足下を、後ろから転がってきたなにかが追い越していきました。
 見下ろすと、それは青いガラス瓶でした。
 同時に、背後から肩に触れられました。
「見えてるじゃないか」
 次の瞬間冷たい床の上に引きずり倒された私が見たものは微笑を浮かべた老人の顔でした。倒れる瞬間これまで歩いてきた背後の通路も蛍光灯がすべて消え暗闇に包まれていたことを知りました。たったひとつ灯る私達の真上の蛍光灯に老人の振り上げた鋏が銀色の光を反射しました。そして最後の明かりが消えると同時に、暗闇に私の髪が切り落とされる乾いた音が響きました。



ミツイケさん削除
投稿日 2004/03/07 (日) 20:36 投稿者 小田牧央

 そうですね、この病院も二十年近く経ってますから、まあ面白い話もなくはありません。精神科医ですからね、守秘義務上、当然仮名ですよ。そのへんは心得て下さいね。
 Nさんとしましょうか。就職活動に失敗して、ご両親と同居してたんですが小さい頃から神経質なところがありましてね。バイトを突然辞めてしまって、理由を訊いても答えない。言動もおかしい。ペットを殺して、その死体と一緒に部屋に閉じ込もってしまったので、初めは母親のほうが相談に来られて、それからご家族と本人が話し合われた結果、入院ということになったんです。
 ご家族から伺った話では、どうも被害妄想や幻覚がある様子でした。統合失調症ですね。いや、成人後に発症することはよくありますよ。十代後半から三十代が多いですね。
 ええ、ここです。この診察室で面会しました。雨が強くて、暗い日でしたね。話しながら窓の外を見てましたよ。撫で肩の人でね、腕をダランと左右に降ろして、頭のてっぺんを上から吊られてるような感じでした。Nさんですねと確認すると、なんだか覚束ないように目瞬きしながら、ハイ、まだそのようですと応えました。あれ、こんな冗談を言う人だったかなと。事前に想定していた人柄と違うので驚きました。まあ、実は冗談じゃなかったと後でわかるんですがね。
 最初は紋切り型に、具合はどうですかとか、夜はよく眠れますかみたいなことから始めまして、受付で書いてもらった問診票なんかをネタに話をするんですね。Nさんは特に服装が崩れてるわけでもないし、口の辺りを触る癖があるのか、しきりに手の平を口に押し当てたりしてましたけど、まあそれほど変わった感じはしませんでした。ただ、どうもなにか隠しているようなんですね。秘密というか、まあ妄想をです。なにかの考えが頭から離れないようなんですね。
 初診で話してもらうのは無理かなと思っていました。ただバイトを辞めることになったいきさつを訊いていたところで、ミツイケさんが、と言いかけてやめたんです。それも会話の流れからは唐突な感じで。気付かなかったフリして、別の話題に移ってから、いきなりミツイケさんとは誰ですか、と振ってみました。構えていないときに問われると、答えてしまうものなんですよ。
 テレビにでてくる人です、Nさんはそう答えました。朝のニュース番組にでてくる人なんですよ。いえ、キャスターではなくて、地方コーナーにレポーターで登場するんですが。ええ、そのときは私も知らなかったんです。Nさん、高校生のときから毎朝その番組を観てたみたいですね。
 初めは就職浪人になった春先のことだったそうです。街を一人で歩いていたらミツイケさんが向こうから歩いてきた。他人の空似かと思ったんですが、擦れ違う瞬間によく観察すると、本人に違いない。もしかするとここら辺で撮影してるのかなとそのときは思ったそうです。
 それから何日かして、バイト先のコンビニエンスストアでレジを担当していたそうですが、驚いたことにミツイケさんがお客として来たそうです。私服だったんで最初はわからなかったけれど、パンと雑誌を買っていったとか。次に来たのは一週間後で、それからちょくちょく来るようになった。服装の趣味が毎回バラバラで、サングラスをしてきたり、ライダースーツを着ていたこともあったそうですよ。
 Nさん、最初は声をかけようかとも思ったそうです。近くに住んでるんですかとか、テレビ観てますとか、そういうことをね。でもまあ有名なアイドルとか俳優というわけでもないので黙っていることにしたようです。ミツイケさん、だんだん来る間隔が狭まってきて、一週間に二回とか三回だったのがそのうち一日に一回は来るようになりました。
 ある日もミツイケさんが来たんですがNさんは驚きました。どうしてかというと、一時間くらい前にもミツイケさん来て買い物していったんですね。なにか買い忘れでもしたかなと思ったけど、別に最初のときと関連のある買い物でもない。しかも服装が違うんです。最初のときはセーターを着ていたのが、今は灰色のコートになってる。おかしいなとは思うけれど事情を尋ねるわけにもいきませんよね。ミツイケさんが出て行った後でNさんは頭を傾げながら他の仕事をしていました。すると奥の部屋からコンビニの制服を着たミツイケさんが現れた。
 よう、お疲れさん、交代の時間だよとか言いながらミツイケさんはレジに入ってきました。驚いてNさんはミツイケさんをレジから追い出そうとした。逆にその制服姿の男はなに言ってるんだ、ミツイケって誰だよと答える。その男、胸には店長の名札をしてるんですよ。それでよく見ると、確かにミツイケさんじゃない。本当に店長だったんです。ちょっとミツイケさんと似た顔の人だったみたいですね。
 それでスミマセン、疲れてましたとNさんは謝って、交代の時間だったのでその日は帰ったんです。で、次の日にまたコンビニに行った。ミツイケさんがレジに立っていました。今度は店長ではなく同じバイト仲間だったんですけど、そういえばこの人もミツイケさんに似てるところがあったなあと。その日、ミツイケさんはお客として五回来たそうです。
 問題は帰りの電車でした。ミツイケさんが十人程いたそうです。革ジャンを着たミツイケさんとか、背広のミツイケさんとか、詰め襟学生服のミツイケさんとか。家に帰ると台所でエプロン姿のミツイケさんがお帰りと言って、茶の間でミツイケさんが横になってテレビを観ながらお帰りと言う。Nさんはそのまま自分の部屋に入って、きっと疲れてるんだと毛布を押入から引っ張り出して横になった。眠ろう眠ろうと思っているけど眠れない。それでも毛布を頭まで被って頑張ってるうちにやっとウトウトしてくる。うつぶせになってると、なにか背中に乗っかかってきた。驚いて毛布から顔をだして首だけ振り向くと、背中にミツイケさんがいる。背が五十センチもないような小さなミツイケさんが座っている。
 思わず身体を起こして、Nさんはミツイケさんの腕をひっつかむと、そのまま壁に叩き付けました。小さなミツイケさんは身をよじらせるようにしましたが、そのまま頭をがつんと壁にぶつけました。押入から金属バットを取り出して、ミツイケさんに何度も振り下ろしました。ご飯よと言って襖を誰かが開くのでそちらを見るとエプロン姿のミツイケさんでした。ミツイケさんが悲鳴をあげたのでNさんが見下ろすと、血溜まりの中でぐちゃぐちゃの猫が死んでいました。Nさんの飼い猫です。
 ええ、その日からNさんはバイトも辞めて部屋に閉じ込もるようになりました。猫の死体が一緒だった理由ですか? 猫はもう、ミツイケさんにならなかったからですよ。Nさん、そう答えました。放心したような目になって、雨の様子を眺めてました。私も釣られて窓を見たんです。外が暗いんで部屋の中が映ってたんですけどね、見知らぬ男がいました。いや、違いますね、知ってる顔だったんですよ。私もその朝のニュース観てたんですけど、名前までは知らなかったんです。ああ、この人がミツイケさんなのかと。白衣を着てましてね、初めて気付きました。私がミツイケさんだったんです。驚いてNさんのほうを見たら、そこにもミツイケさんが座ってました。
 長話してスミマセンね。それじゃ、診察を始めましょうか、ミツイケさん。



押入一人削除
投稿日 2004/02/05 (木) 21:59 投稿者 小田牧央


 寒い冬の昼下がり、お兄ちゃんとそのお友達は屋根裏を探検することになりました。懐中電灯を持って、みんなでお祖父ちゃんの部屋に集まりました。そこはお仏壇のある部屋で、数日前に隠れん坊遊びをしていた私達は、押入の天井から屋根裏に潜り込めることを知ったのです。
 お兄ちゃん達は押入の戸を開けて上の段からお布団を引っ張り出しました。空いたところにお友達が次々と上がり込み、天井の切り込みに嵌った板を横にずらして、ぽっかり空いた黒くて四角い穴に次々入っていきました。
 最後に上がったお兄ちゃんが私の腕を引っ張り上げ、お布団に座った私にペンライトを渡しながらこう言いました。サチコ、お前はまだ小さいから一緒には連れて行けないよ。ここで待っておいで。いいかい、押入の戸をぴったり閉めてはいけないよ。ぴったり閉めると明かりがあっても暗くて怖くなってしまうからね。そしてお兄ちゃんは押入の戸を親指の幅だけ残して閉ざし、あの四角い穴から天井裏に消えてしまうと、板を元に戻し閉ざしてしまいました。
 木のきしむ音が少しずつ遠ざかっていきました。私はお布団の上に寝転がって、ペンライトを左右に動かし辺りを照らしました。カビと防虫剤のあわさった匂いがして、光の輪が天井や壁の木目を照らしました。ライトを消して身体をうつむけ、お布団に顔を埋めると日向と人肌の匂いがしました。うつぶせのまま私は見えもしないのにペンライトを点けたり消したりし、手足を落ち着かなく動かしました。
 頬に擦れるお布団の肌触りにうとうとしかけたとき、足になにかが引っかかり、続けてコトンという柔らかい音がしました。ハッと顔を起こすと、押入の戸がぴったりと閉まっています。半身を起こし腕を伸ばして、戸を開けようとするのですが指を引っかけるところがないのでうまくいきません。ちゃんと身体を起こし、両手で桟をつかんで引くと少しだけ動きました。細く開いた隙間に指を差し込み更に引きました。
 開いた戸の向こうは真っ暗でした。明るく日の差し込むお祖父ちゃんの部屋は消え失せていました。布団が積み上げられ、その上にはぽっかりと空いた暗闇があるばかりです。まるで鏡のように押入の反対側に別の押入が向かい合っているのです。
 天井裏でなにかがきしむ音がしました。手にペンライトがないのに気付きました。戸を両手で開けるため、どこかに置いたのです。もう一度、きしむ音がしました。さっきよりも近い場所です。布団の上をまさぐり、ライトを探します。かたん、という音がして、向こう側の押入の、天井の板が外される気配がしました。暗闇の中で金属に触れて、私はペンライトをつかみ、スイッチを入れました。しかし電池が切れたのでしょう、明かりは点きません。そっと視線を走らせると、向かい側のお布団の上に、大人の裸足の足首が天井裏から降り立ちようとしていました。
 私は戸に飛びつきました。身体をぶつけるようにして閉ざし、そして離れました。布団の上に膝立ちして天井裏に続く板を持ち上げ、横にずらし、急いで身体を潜り込ませました。初めに見えたのは木目の床でした。食卓とガラス棚、薄暗い電灯、低くうなる冷蔵庫。見慣れた台所の光景がそこにありました。炊事場に立つ背中があり、細く水を流しながら米を研ぐ音が響いてきます。お母さんです。花模様のエプロンをして髪を後ろでまとめたお母さんが水道でお米を研いでいるのです。
 磨りガラスの窓の外は真っ暗でした。振り子時計が真夜中の時刻を指しています。私はお母さんの傍に近付き、顔を見上げました。お母さんはニコニコと微笑んでいます。私は流しの縁に指をかけ、背伸びをして覗きこみました。するとどういう訳か、炊飯器の釜がありません。いつもならそれにお米を入れて研ぐはずです。水道が詰まっているのか流しは水が溜まっています。水は研ぎ汁で真っ白です。その中にお母さんは両腕を差し入れ、寒さに凍えるように腕を震わせています。
 もう一度見上げてみました。そこにはやっぱり微笑むお母さんの顔があったのですが、なにか気配が違うように思えました。前髪に白髪が数本混じっています。そして小さな声で、何度も何度もサチコ、サチコと私の名をつぶやいているのです。
 視線を落とし、私はお母さんの足下をみつめました。裸足の足首がそこにありました。元の押入に戻ろうと、床に開いた四角い穴に向かって私は急いで駆け戻りました。



勘当2削除
投稿日 2004/01/30 (金) 14:20 投稿者 いな

男は逃げていた。振り払っても振り払っても父の姿は消えない。そうしていつも語りかけてくる。
 『子供を、本家に渡せ』
 男は逃げる。声から逃げる。父が見える。ついてくる。どこまでも、限りなく。
 気がつけば子供は血塗れで横たわっている。
 男は霊能力者だ。本家はその力を軸にまとめられている。霊に関する現象の総本山として近隣からは恐れられている。
 男は六年前に本家から許嫁を裏切り他の女と逃げ、勘当されていた。昨年父が死に五年ぶりに本家の門をくぐった。そこで父にあったのだ。父は男の子どもの力を見抜いていた。だから子供が欲しいのだ。本家の反映に必ず力を発揮する子供を。
 そんなことはさせない。
 あんな家、潰れてしまえばいい。
 男はいっそ子供は生きていない方が幸せかもしれないと思った。母親に捨てられ生活力のない父親に育てられる子供は不幸以外の何者でもない。
 しかも俺は・・・
 殴るのだ。
 だから父は、子供を本家に欲しいのだ。泣かない子供を。 
 「俺の子供だ。俺の自由だ。」
 『子供を本家に渡せ』
 「イヤだ、イヤだ、何故、何故だ。」
 自分は決して本家に呼ばれることはもう無いのだ。必要のない人間なのだ。
 「ふははははははっどうだっていいよ、どうだっていいよもう」
 普通になりたかった。
 仏にはなれないと知った、女は逃げた。男も逃げたい。
 「お母様は元気かしらん」
 息子に会わすと約束したのに。自分が当主となり結界を張り父を本家から追い出す夢。
 「お腹空いたよ」
 息子の声に正気に戻る。しかし元の自分はもうそこにはない。  



勘当削除
投稿日 2004/01/30 (金) 13:16 投稿者 いな

 当主には自慢の息子がいた。ある日、息子は許婚を裏切り普通の娘と結婚したいと言った。当主は息子を家から追い出した。
当主が死んで四十九日も終わりようやく息子は家の者たちに呼ばれ、門をくぐった。
息子からかつて立ち上るような神々しさは失われ、下男はうろたえ、女たちは声をしのばせ泣いた。
「線香を」
母親は感情が表れないよう苦労して声を絞り出した。主が死んだことより、息子が凡俗にまみれたことのほうがよほど辛かった。
「子供を家においてきた。面倒は避けたい。」
その声を聞き母親はもう我慢ならなくなった。やせ細った母親を、息子は指して感慨も覚えず見下ろした。
「帰っていらっしゃい、お父様はもういらっしゃらないの、あなたはちっとも悪くない。」
息子は仏壇を避けてずっと庭を見つめていた。そこには父親がはっきりと見えていた。他の者には見えない。

子供をこの家に渡せ

「くっくっくっ」
家中の者どもがすすり泣く。
「俺は酔うと子供を殴るらしい。」

子供を、おまえよりよほどこの家向きだ

「怖いほど泣かない子なんだ、きっと俺と同じ能力があるんだな。」
息子は独り言を続ける。春だというのに、庭には一輪の花も咲いてはいなかった。息子がいなくなった年から植物は活気を失った。
「普通になりたい。そう思ったことのどこが悪いというのだ。」
「いるのね・・・・いるのね・・・」
母親は息子の後ろで骨壷を抱いた。息子に見せるまで墓には入れられなかった。腰まで届く金髪を息子はばさばさに切ってしまっている事にはじめて気づく。そういえば、随分見かけも変わった。生活の疲れがにじんでいる。母親は目が悪かった。息子を久しく目にしたとき、真っ先に見たのはオーラであった。
こんなことを思い、やはり自分は夫を好いていなかったのだと、骨壷を脇にのけた。

お前が連れてこなければ

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
いつか迎えを私がよこそう

息子はため息をつき、骨壷を手にすると逆さにして庭にぶちまけてしまった。
当主がにこりと笑った。
「明日息子を連れてくる。」
母親は呆然と息子を見上げた。息子の視線はまだ地面が白く染まった庭にあった。庭に降り立ち、ぼりっ、と塊を踏んだ。
「妻は逃げた。隣に預けてあるんだ。」
そういって初めて息子は泣いた。
次の日も、また次の日も息子は家にくることはなかった。家中の者も、また、いつもの生活に戻り時折母親をなぐさめた。
この夏、庭にはとりどりの花が咲き乱れた。夾竹桃が白くまぶしい。
息子は完全に消息を絶った。
母親が孫の顔を見ることはなかった。



モノクロームの画家削除
投稿日 2004/01/12 (月) 19:41 投稿者 小田牧央

 二ヶ月程前、別の用事で近くを通ることがあり、再度訪れてみた。建物はそのままだったが洋品店になっており、あの小さな美術館は跡形もなくなっていた。
 最初に訪れたのは十年以上前、私がまだ美術専門学校にいた頃になる。休日になるたび展覧会巡りをしていた。
 美術館というと立派な建物や何部屋もの展示室、著名な画家の数万から数億もする絵画を思い浮かべるかもしれない。しかしガイドブックを探せば、企業や個人資産家が管理する小規模の美術館が思いがけず多いことに気付かされる。大学サークルや市民団体による展覧会が公共施設で行われるケースもある。そういった展覧会はスペースが小さく、受付や作品展示、搬入出作業も作者自ら行うことが多い。
 その美術館も小さかった。陽光の厳しい夏の日だったのを覚えている。庭の広い家が建ち並ぶ高級住宅街に、その建物は深い緑と輝く芝に包み込まれていた。
 須藤誠二遺作展というビラがあったように思う。中に入ると、二十畳程の空間があった。南側と東側はほぼ全面がガラス窓になっており、庭の木立が黒い影絵となって枝を広げている。
 南東の隅に、二人の若い女性が立っていた。窓からの陽光が強いため、二人の顔は逆光でよく見えない。スーツ姿で、胸にネームカードをつけていることから館の関係者だと思われた。もしかすると、作者の遺族だったのかもしれない。
 北側と西側に作品が展示されていた。アルミ製のシンプルな額縁にモノクロの作品が納められている。隅に立つ二人の女性がひそひそと私語を交わしていた。
 銅版画と写真コラージュが組み合わされていた。人物画が多い。駅のホームやデパートの屋上、児童公園、オフィスの一角といった日常的な場所を背景に、自然な動作の人々がスナップ写真のように描かれている。幼児の頭をそっと撫でている母親、頭を寄せ合ってベンチで居眠りする少年少女、犬を連れ遠くを見つめている老人の後ろ姿。鉄筆の極細線とソフトフォーカスな写真が巧みに合成され、リアルでありながら画家の眼を強烈に感じさせる。
 私はゆっくりと作品を鑑賞した。部屋の奥へ移動するに連れて、二人の女性が交わす言葉の内容が切れ切れに聞き取れるようになった。
(……で……亡くなったの……膨らんで……)
(……錯乱……可哀想に……)
 やがて最後の作品の前に立った。エレベーターの扉を背にコートを着た男が立っている。タイトルは「自画像」とあった。しかし奇妙なことに、顔が黒く塗りつぶされている。二つの眼だけが塗り残され、こちらを真っ直ぐにみつめている。
 どこか違和感を感じさせた。普通、エレベーターを待つときは階数表示のほうを向いて立つ。しかし絵の中の男は逆を向いている。怒りを込めたような目で鑑賞者を睨んでいる。
 細部をよく観ようと絵の前に近付いた。すると、勘違いをしていたことがわかった。塗りつぶされているのではなく、黒い紙が貼り付けられている。それも絵の上に直ではなく、額縁のガラス板に貼られている。
 私は手を伸ばした。きっとこれは悪戯かなにかに違いない、そう思った。黒い紙の端に爪を立てる。思いがけず、それは簡単にめくれた。短くカットした頭髪が表れた。更にめくり、額をあらわにする。すると、吹き出物のような黒く丸いものがいくつも浮き出ていた。肌の病気だったのだろうか、そう思いながら更に剥がした。
 顔全体があらわになって、やっとわかった。吹き出物ではなかった。それらは眼だった。モノクロ写真のコラージュで、顔中が眼になった男がそこに立っていた。



十三号室の壁に書かれた歌削除
投稿日 2004/01/07 (水) 01:18 投稿者 猟奇ノ果

赤煉瓦ノ建物ニテ
ドツペルゲンガーヲ見タト云フ
狂人ノ夢

殺シタ虫達ガ飛ビ廻ル
満月ノ夜
ソレヲ再ビ殺ス我

屍蝋ヲ作ル我
屍蝋二ナツタアノ娘
皮下二見エルカルシウムノ枝

赤イテントノ中ノ魔術師
帽子ノ底ヨリ取出ダシタルハ
女ノ生首

夢ノ世界ノ探偵作家
夜目ガ覚メタラ鉄格子
朝目ガ覚メタラ氷ノ涯

*************・・・・

白イノオト二血潮シタタル




韋駄天削除
投稿日 2004/01/03 (土) 14:46 投稿者 nan

何も浮かばないなあ
やっぱつまんない
いいじゃんべつに
全てがそうだと言って
きみが笑った
韋駄天のように
影も映さず。



巻頭歌削除
投稿日 2003/12/13 (土) 00:16 投稿者 松本ヒサオ

いにしへの未完作のつづき
知り度さに
文士の墓に鍬打つきちがひ

http://homepage3.nifty.com/guho_ko_sha/



アウター・エンド・ビュー削除
投稿日 2003/12/06 (土) 22:11 投稿者 小田牧央

 これまでの人生で、凄惨と呼べる光景を目撃した経験が二つある。ひとつは小学生のとき、秋晴れの昼下がりだった。
 古い造りの家が並ぶ住宅街で、往来に人影はなく静寂が支配していた。隣家の庭は狭くはあるが庭木が多く細めに手入れされていた。モルタル壁は風雨にくすみ、ペンキを塗り替えた勝手口の鮮やかな水色のドアがそこだけ浮いているように感じた。そのドアを開いて、中から隣家の主婦がサンダル履きで姿を見せた。
 夫婦と幼い息子が一人、父方の祖母という家族だったように思う。無表情なまま緩慢な足取りで柿の木の下まで足を進めた。それから両の目頭を親指と人差し指でつまみ、目が疲れた人のように、瞼を閉じて揉んだ。しばらくそうしていたかと思ったが、不意にくずおれるように膝を散り落ちた枯れ葉と庭土の上に突いて背を丸め、祈るような姿勢のまま動かなくなった。
 この後どうなったかはわからない。台所の窓越しに偶然それを眺めていた幼い私は驚き、なにか見てはいけないものを見てしまったようで、すぐにその場を去ったのだ。やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。その後家族や近所の大人達の世間話から、隣家の夫が亡くなったこと、それも妻が絞め殺したということ、私が目撃したのは殺害直後の姿だったことがわかった。
 ふたつめは、ごく最近のことだ。病院の待合室で、一人の患者が奇妙な自殺をした。
 郊外にある総合病院に私は隔週で通っている。受診する科は二階にあり、順番を待つ私の椅子からはエスカレーターを利用する人々の姿を見下ろすことができた。快晴だが風の強い日で、誰もが冬の装いをしていた。例外は入院患者で、軽装の上に薄いカーディガンやニットを羽織っている程度だった。
 その男性は水色の地に細い白のストライプが入ったパジャマを着ていた。エスカレーターの手前で不意に立ち止まり、胸の前でかきあわせる仕草をした。コートやカーディガンを着ていたのならわかるが、男はパジャマだけで上になにも羽織ってはいなかった。不思議に思っていると、エスカレーターに乗り込んでから男はまた同じ仕草をした。
 理由のわからないまま私は関心を無くし、院内に飾られた絵画を眺めたり、ぼんやり物思いにふけって順番を待っていた。それから数分が過ぎて、順番を待つ人々に呼びかけるアナウンスが流れた。しかし私の名は呼ばれず、代わりに少し離れた席で男性が立ち上がった。四十代前後と思しき頭髪を短く刈り込んだ目の大きな男だった。
 エスカレーターにいた男だとすぐにわかった。後から来たのになぜ先に呼ばれるのだろう、入院患者を優先するのだろうかと何気なく背中を目で追った。男は少し大股にまっすぐ数歩進み、そしてそのまま、両足をそろえ通路の真ん中で立ち止まってしまった。軽くうつむき、そのまま動かない。名前を呼ばれた他の人々が訝しげな顔をしながら男の横を通り過ぎていく。
 私の脳裏に、目頭を親指と中指でつまむ女の顔が鮮やかに投影された。数分が過ぎ、それでも男はまだ立っていた。私はただじっと見ていた。再びアナウンスが流れ、男が顔を上げた。虚ろな目があった。首を曲げ、真っ白な壁をみつめる。なにかがそこにあるかのように、なにかが近付いて来るのを待つように、なにもない白い壁を見ていた。
 次の瞬間、男の身体が跳んだ。それは跳ぶというよりも、倒れるという感じに近かった。コンパスの円軌道に沿って男は前方に倒れていく。しかし奇妙な無重力感と共に、男の足が跳ね上がり、一瞬で天井を向き、逆さになった男の身体が宙に浮いた。着地と同時に首が異常な方向に捻曲がり、両足が二重螺旋を描きながら落ちていく。
 一瞬の静寂があり、遅れて短い悲鳴と駆け寄る看護士の姿があった。人々の混乱と叫び声の中で、私は謎だった仕草の意味を理解した。エスカレーターの前で、男は定期入れを取り出したのだ。エスカレーターに乗り込み、男は背広の内ポケットに定期入れを戻した。そしてホームに上がり、男にしか視えない幻の世界の中で、やってきた電車に身を投げたのだ。



不確かな光景削除
投稿日 2003/11/15 (土) 21:44 投稿者 小田牧央


 デジャビュという言葉があります。フランス語で既視感を意味します。初めて目にした光景のはずなのに見覚えがある気がしてならない、けれどいつ見たのかはどうしても思い出せない、そんな感覚のことです。私の場合は少し変わっていました。デジャビュを夢の中で感じたのです。
 大学の講義室でした。広い教室に学生達が間隔を置いて座り、一人で読書をしたり複数人で雑談を交わしたりしています。窓からは陽光が降り注ぎ、向かい側の棟の外壁が白く輝いていました。
 教室には三人掛けの長机が三列並び、後ろへ行く程階段状に高くなっていきます。前から二番目の席に、二人の男性が座っていました。二人は机と机の間の通路を挟んで横座りし、向かい合って談笑していました。
 右側の男性には見覚えがありません。しかし左側に座っている男性は、友人Kであることに気付きました。ただ彼は学部が異なるため、普通ならばこの教室にいるはずがありません。そのためどうして彼がここにいるのだろうと意識しました。
 二人が同時に足下を見下ろしました。通路をなにか丸いものが転がってきたのです。Kが身をかがめて拾い上げたそれは紙風船でした。赤、青、黄、白に塗り分けられた紙風船です。夜店で売っているような子供向けの素朴なものです。
 デジャブを感じたのはこのときです。似た光景を目にした覚えがあるように感じました。けれど、それを見たのがいつだったのかは思い出せないのです。
 Kは身をかがめ、片手で紙風船を拾い上げました。そしてそれを潰し、くしゃくしゃと丸めてしまいました。私は、Kが次になにをするのかわかっていました。Kは口を大きく開け、丸めた紙風船を飲み込んでしまったのです。
 私はこれが現実ではないことに気付いていました。夢の中で私は現実ではどうだったか思い出していました。友人Kは奇術研究会に所属しているのです。クローズアップマジックを得意とする彼はしばしばイタズラ半分の気持ちで無関係な赤の他人の目の前で突然マジックを実演するのです。相手にはなにも知らせず全くの不意打ちで、まるで突然奇跡でも起きたかのように振る舞うのです。
 私は込み上げてくる笑みを押し殺しながらKの手腕を鑑賞することにしました。この後に彼は口を開けてなにも入っていないことを示すでしょう。もちろん本当に紙風船を飲み込んだのではなく、うまく掌に隠し持っているだけなのです。そしてニッコリ微笑むと突然廊下側の入り口が開き、人の背丈もある巨大な紙風船が転がり込んでくるでしょう。数分前から巨大紙風船には奇術研究会の仲間が潜り込んで廊下で待っていたのです。
 しかし、いつまで待っても入り口のドアは開こうとはしませんでした。Kは口を閉ざしたまま、あっけにとられている相手を置き去りにして立ち上がりました。こちらへ向かってKはゆっくりと歩いてきます。私がいたことに初めて気付いたのか、視線が合ってKは微笑を浮かべました。失敗したよ、という感じの苦笑いです。
 Kが口を開きました。赤、青、黄、白の細かくちぎれた紙切れ、そして小さな手足と肉片、真っ赤な血が口中に散らばっていました。そのとき私は気付いたのです。友人Kなど現実には存在しません。大学を卒業して五年が過ぎ、私はいま社会人で、そもそも大学に奇術研究会などなかったのです。
 何事もなかったかのように口を閉じ、横を通り過ぎて行くKの背中を見送りながら、私は夢が覚めるのを待っていました。



難しい前提削除
投稿日 2003/11/07 (金) 00:08 投稿者 根無し草

お金で人の心が買えるのか?……という命題は
心でお金を稼ぐ事ができるのか?……という命題を解く事で
答えが出そうだ。

しかし依然として、スッキリした結論は出ない。
「心」も「お金」も
最も単純で最も難解な概念だからだ。



削除
投稿日 2003/10/11 (土) 16:09 投稿者 yanyan

 詩なんてきらいだ。無意味な改行がきらいだ。お定まりの型がないのがきらいだ。文と文のあいだの余白にあらわれている、”わかってよ””わかるでしょ”という甘えがきらいだ。
 なにげなく言ってみて、ふと気づいた。あなたが詩的存在だからだ。文字の世界とその余白にしかあなたがいないからだ。あなたの指を眺めて切り落として家にもってかえることも、あなたのペニスを愛撫して噛み切ることもできない。
 あたしは阿部定になれない。このことがどれくらい悲しいことなのか、あなたにはわからない。



不満解消の便宜削除
投稿日 2003/10/11 (土) 12:33 投稿者 yanyan

 ふくれっつらをして言ってみた。「不満なさそうな顔してるよね。不満、ないの?」。あなたは言った。「不満って何だ?」あたしは返した。「不満は不満よ。あなたはあたしのことで不満があるに決まってるわ」。あなたは眉をちょっとつりあげて言った。「なにいってんだよ。被害妄想だ。不満なんてない。強いていうなら、おまえがそんな顔をするのが不満だ」。

 そう言われてスゴスゴ帰ってきた。しあわせなのかもしれない。他人からみたら。でも、他人のいうことなんか信じられない。いきなり死にたくなる。脈略なんてない。そばに、ハルシオンの十錠入りシートがある。これをぜんぶ飲む、なんて簡単なことなの?コンビニみたいな便利で簡単な死、あなたならどう思うんだろう?

http://jove.prohosting.com/~yan2/



就寝時前に服用のこと削除
投稿日 2003/10/05 (日) 18:29 投稿者 小田牧央

 旅行が嫌いだ。私は旅行が嫌いだ。日常のリズムを崩されるのが嫌だ。リズムを崩されると薬を飲み忘れる。薬を飲み忘れて幻が襲ってくる。幻が襲ってくるから旅行が嫌いだ。
 例えばホテルに泊まる。出張でビジネスホテルに泊まる。シングルの狭い部屋に泊まって朝はベッドで目覚める。目が覚めると昨夜は薬を飲んだかなと思う。飲んだ記憶はあるから安心して起きる。起きるけれど薬を飲んだか覚束なくなって薬を飲んだつもりだけの気がしてくる。どうしようかなと思うけど薬を飲み過ぎると怠くなるから嫌だ。起きて身支度を整える。背広に着替える。
 朝食をとるために部屋をでる。エレベーターのドアがタイミングよく開く。老夫婦が乗っている。チェック模様のスーツを着た夫と着物姿の妻。幸福そうな笑顔を浮かべ小声で談笑している。乗り込む私の後ろでドアが閉まる。ドアのほうを向こうとターンして老人の顔が視界を過ぎる。老人は顔に二本の輪ゴムをはめている。一本は口から首の後ろを、もう一本は目から耳たぶを通る。緑色の輪ゴムが水平に顔を三等分するように巻かれている。うつむきながら私は薬を飲み忘れたに違いないと気付く。
 エレベーターが到着して扉が左右に開く。私はエレベーターに留まろうとするのだけど老人が開くボタンを押して降りるのを待ってくれているので済まなく思えてきて降りる。うつむきながら別のエレベーターで戻ろうと私は思うのだけど誰かの声がして顔を上げる。蝶ネクタイをしたフロントの人が受話器を高々と掲げている。サトウさんサトウミチヨさんナナマルサン号室のサトウミチヨさんと呼んでいる声は九官鳥のように甲高い。今すぐ部屋にお戻り下さい爪楊枝が足りません爪楊枝が必要ですという声を無視して私はエレベーターのボタンを押す。
 すぐに開いたドアには先程と同じ老夫婦が乗っている。老人の顔に輪ゴムはなく私は安堵して乗り込むと後ろでドアが閉まりターンする私の視界を老婦人の顔が過ぎる。赤い輪ゴムが二本巻き付き老婦人は嬉しそうに口を開けて舌で輪ゴムを何度も弾き大きく見開いた眼球に赤い輪ゴムが食い込んで私は部屋のどこに薬を置いたか考える。老人が階数を訊ね私はうつむいたまま応えエレベーターが動き出す。老婦人の短い悲鳴がするが私は絶対に顔を上げない。うつむいたままでいるとなにか床にぶつかる音がして円盤状のものがコインのように転がってくる。それは老婦人の頭部を水平に三等分した眼球から上の部分と鼻の部分で私のうつむく視線の先で倒れると赤い輪ゴムがパチンパチンと弾けて飛ぶ。あらあらゴメンナサイネと下顎から上のない着物姿の老婦人が舌をピクピクさせながら屈み込んでそれを拾う。
 エレベーターが私の部屋の階に到着して私は廊下を進み部屋に入るとバスルームに駆け込む。洗面台に置いた赤い錠剤のプラスチックのシートをつかんで裏側を口に押し当て表側の柔らかいプラスチックの箇所を押して口の中に赤い錠剤の薬を押し入れる。水を飲もうと蛇口をひねると爪楊枝が流れ落ちてきて洗面台に次々と散らばる。水無しで薬を飲み込み舌をだして鏡に映すと錠剤の着色料のせいで舌の真ん中が真っ赤に染まっている。
 私は蛇口を開けっぱなしにしたまま浴槽に入る。蛇口から流れ落ちていく爪楊枝が水に変わる瞬間を見ようと膝を抱えて眺めている。何分かそうして待ってから、薬は鞄の中に入れたままで、洗面台の上に置いてなどいないのを思い出す。浴槽から身を起こし、洗面台から溢れタイルの上に浅く溜まった爪楊枝に足を下ろす。乾いた音を立てて折れてゆく爪楊枝が足の裏に突き刺さって痛い。



アナテーター削除
投稿日 2003/09/23 (火) 06:02 投稿者 komaru

どんなに僕が望んでも
伝わらないものは仕方がない。
努力で願いが叶うならば、
死んだ恋人が蘇えるという矛盾にも
肯くことができる。
さらば愛しき人よ・・・
うつむきかげんで事を
済ませる僕をよく許してくれたね。
僕は・・・
歯痒い自分を曝け出すのが
怖いだけなんだよね。

さあ、黄金色に輝くあの綺麗な場所まで
僕を連れていってください。

スゥー、サァー、スゥー



落日削除
投稿日 2003/09/19 (金) 22:48 投稿者 日野縁真

幼い頃の呪い小石 私を縛る宝物 

スズメのお墓に手を合わせ 飛蝗を一匹お供えに
仲間を集めてお経を唱える ナムアミダの次は何だっけ? 
 
私のリカちゃんバービーちゃん 折り合い悪くて困ってる
押入れの中で覇権争い 今日はリカちゃん泣いてます

ガッコの帰りにかくれんぼ 今日は私がオニだった けど
ジュウレンジャーが観たいので 私は先に帰ります 

思い出詰まった呪い小石 今でも私の宝物  



喉奥の奥歯削除
投稿日 2003/09/16 (火) 21:16 投稿者 小田牧央

 頭痛がしていた。歯科医の診察台に座りポカンと目を見開いたまま、にじみわくような痛みがじんじん続くのを耐えていた。
 白衣にマスク、四角いフレームの眼鏡をかけた白髪混じりの髪の柔和な笑みを浮かべた歯科医が覆い被さるようにかがみ込む。手にしたドリルが目の前を横切り条件反射的に私は目を閉じる。
 眼を閉じた途端に頭の中でドリルの振動音が反響する。吸引機が削った欠片を吸い込みながら口の中を乾燥させる。舌をどこに置けばいいのだろう。うっかり動かしてドリルに削られたりしないだろうか。吸引機に吸い込まれたりしないだろうか。舌をいったいどこに置けばいいのだろう。
 ドリルが次第に奥のほうに動いていく。奥歯をひとつひとつ撫でていく。不意に振動音がピタリとやみ、歯科医の腕がグイッと喉奥に差し込まれる。驚いた私は声をあげようとする。しかし口の中が歯科医の手首でいっぱいなためしゃべることができない。舌先にゴム手袋の味がする。ここかな、ここかな、歯科医はつぶやきながらドリルの先で喉奥をまさぐる。ここだな、とつぶやいて歯科医がドリルのスイッチを入れる。ドリルの音が少しくぐもって響く。ガポガポガポガポと液体の泡立つ音がして胸の真ん中あたりがポカポカ暖かくなる。気持ちよくなって頭痛も忘れて私は瞼を細めてドリルの振動に身を任せたまま身体の内側から鼻孔に立ち上ってくる血とゴムの匂いを嗅ぐ。
 ハイ、終わりましたよという歯科医の声とともに、ドリルが止まり腕も引き抜かれる。同時に胸の奥から熱いものが込み上げてきて、脇にある半球型の水洗に思い切りよく吐く。金属面に鮮やかな赤いものが広がって、うがい用の小さなコップからコプンと小さな音がする。覗き込んでみると、コップの底に小さな歯があった。奥歯と形は同じだが、大きさが普通の歯の半分しかない。歯科医がそれをつまみあげ、保存するのか隣の部屋に出て行く。
 ひとしきり吐き終わって、私はうがいをする。頭痛がまた戻ってきて、私は診察台に背を預け、ぼんやり目を見開いたままポカンと口を開ける。喉の奥のほうからピーという甲高い音がした。驚いて口を閉じると止まる。あれ、と思って口を開けるとまた鳴る。口を開け続けていると、その音は途切れながら鳴り続けた。
 隣の部屋から歯科医が戻ってくる。ピーという音を聞いて立ち止まり、耳を傾ける。ああ、口笛を吹いているんですね、と歯科医は言った。



御礼行脚削除
投稿日 2003/09/13 (土) 21:37 投稿者 日野縁真

最後に逢ったは二月の終わり 化石の想いは時を知る
妬みの墓から這い上がり 月冷えのアスファルトに導かれ
窓を見上げや薄手のカーテン 仄かな明かりに生存確認
生きていなけりゃ殺しもできぬ つまり私は安堵した




深遠削除
投稿日 2003/08/20 (水) 21:48 投稿者 椿

底なしといわれている井戸をのぞきこみ、
「さようなら」と言ってみた。



寝苦しい夜削除
投稿日 2003/08/20 (水) 21:39 投稿者 椿

夜中に眼が覚めると、
眼の前にビワほどの子供の顔が浮いていた。
恐怖のあまり必死でにぎりつぶしたら、
果実のような汁がでた。



夜の旅路削除
投稿日 2003/08/10 (日) 14:36 投稿者 小田牧央


 息を詰め、私は暗い心地で夜の街を歩く。薄暗い路地を曲がると壁に沿って人々が並んでいる。華美な服装をした若者ばかり皆、前に並ぶ者の後頭部を虚ろな視線で眺めている。なにを期待するのか額に汗を浮かべながら押し黙っている。
 路地を曲がると人通りの密度が増すのを感じた。ヌッと目の前に差し出された腕の先にポケットティッシュ。私は無言で身をかわす。ネオン看板と青果店の様々な色が眼に飛び込む。目の前を歩く紫のパーマの中年女性が、無言でティッシュを受け取り腕にかけた紙袋に放り込む。デパートの店名が描かれた紙袋いっぱいにティッシュが詰まっている。
 行列はこの通りでも途切れることなく続いている。私は角を曲がり再び暗い路地に入る。背後から金属同士ぶつかる衝撃音が弾ける。
「死んだな」「ああ、死んだ」
 誰かの声と誰かに応える声。死んだ。私はそっとつぶやき足を進ませる。数分前の出来事を思い出す。駅のホームに降り立ち何気なく顔を上げた。次の電車の到着時刻を知らせる電光掲示板を、用もないのに見上げた。しかしそこにいつもの表示はなく、代わりに途轍もない勢いで文字が流れていた。私の国の言葉が流れていた。遙か南の貧しい国に待つ私の妻子。美しい水田の村に旅客機が墜落して炎上しているというニュース。
 角を曲がる。私は気が狂っていた。駅のホームに私の国の言葉でニュースが流れるわけもない。その証拠に同じ電光掲示板を眺める周囲の人々は誰も騒ぎ出さない。旅客機に日本人は乗っていなかったことを最後に告げ、そしていつもの表示に戻った。
 角を曲がる。暗い路地の壁に沿って人々が並んでいる。誰もが一様に魂の抜けた顔をして並んでいる。背後から尾けてくる足音がする。肌寒さに胸が震えだしそうで鈍い痛みが後頭部を締め付ける。
 角を曲がる。道幅が増し周囲が明るくなる。ヌッと目の前に差し出された腕の先にポケットティッシュ。見上げると、腕に紙袋を下げた紫のパーマの女。ティッシュを受け取りながら、そっと振り返る。私の背後に続く行列の人々が無表情のまま次々とティッシュを受け取っていく。



薄闇の魔術師削除
投稿日 2003/07/16 (水) 15:53 投稿者 小田牧央


 小雨に顔をうつむける夜道は暗く傘もない。頬が湿り背中に熱がこもる。粘着質な靴音に耳を傾け、思考が薄れてゆくのをぼんやり感じる。それでも足は不思議と道を覚えており、曲がるべき角を曲がり進むべき道を進む。
 クリーニング屋の手前の細い路地に入る。鉄製の階段を上がると、スチール製のドアの前で白装束の人影が背中を見せている。ノブをつかんで前後に揺らし、困ったように首を傾けると長髪が波打ち蛍光灯の光を反射する。諦めたように振り返る顔は女性で、狐のように細長い吊り目がこっちを向く。
 サーチライトのように真っ直ぐな光が庭木の影を壁沿いに滑らせる。見上げる視線の先を横切る高架の上、黄色い車体の満員電車が地響きをたてて通り過ぎる。鼓膜を遠ざかる振動に我に返って振り返ると、鉄製の階段を白装束の女が下りてゆく。
 人の家の前でなにをしていたのだろう。いぶかりながら鍵を取り出しノブの鍵穴に射し込む。おや、このドア、ノブは右側だったかな。左側じゃなかったか。金属音を立てて鍵を半回転させドアを開く。靴紐を解きながら右側の壁を探ろうとして指が宙を掻く。おや、と思いつつ反対側の靴紐を解きながら左側を探ると照明のスイッチに指が触れる。
 照らされるフローリングの床、記憶と反対側にあるシンク、買った覚えのない二槽式洗濯機。靴を脱いで辺りを見渡しながら奥に進む。引き戸を開くとあぐらをかいている男が背中を見せて座卓にかがみ込み布きれ相手に懸命になにか作業している。つけっぱなしのテレビに深紅のドレスを着た歌手が目を閉じてマイクになにか叫んでいる。
 気配をさとった男が振り返る。眉の白い年老いた顔で額に皺を寄せ目を見開く。
(おやおや、また来たんですか)
 手にしていたものを男が座卓に置く。綿とフェルト生地の簡素で小さな人形。左目はボタンで、右目はこれからつけるところなのか、青鉛筆でバツ印が描かれている。
(あなたの家はお隣ですよ)
 男が立ち上がりかけるのを見て、私は慌てて手を振り引き戸を閉ざす。そうそう、どうりでおかしいと思った。こんな見覚えのない部屋が私の部屋であるはずがない。靴を履きドアを開け外にでる。せめて今の男に詫びのひとつでも言えばよかった。それにしても「また来た」とはなんだろう、以前に間違えたことなどあったろうか。隣のドアの前に立ち、鍵をとりだす。
(おや?)鍵を手にしたまま、しばらく立ち尽くす。
(さっきはどうして鍵を開けることができたんだ? 隣の家のドアの鍵を、なぜ私が持ってるんだ?)
 ゆっくりと腕を差し伸ばす。ノブをつかみ、ひねり、ひく。開いたドアの向こうに薄闇が広がる。白装束の長い髪の女がフローリングの床に立ち尽くし、こっちを見ている。右は眼窩から飛び出した眼球がぶらさがり、左の眼球は存在せず深い穴が空いている。細く開いた奥の引き戸からサーチライトのように真っ直ぐな光が射し込み、私のほうへ向かって黄色い車体の満員電車が地響きをあげながら押し寄せてくる。





  繝励Ο繝輔ぅ繝シ繝ォ  PR:辟。譁僣P  蜊玲ケ冶ェ蜍戊サ雁ュヲ譬。  螢イ謗幃代雋キ蜿匁焔謨ー譁吶螳峨>  蟆る摩蟄ヲ譬。 蟄ヲ雋サ  繧ケ繧ソ繝繝峨Ξ繧ケ  繧ォ繝シ繝翫ン 蜿悶j莉倥¢  繧ソ繧、繝、 繧ケ繧、繝輔ヨ 譬シ螳  繧ウ繝ウ繝斐Η繝シ繧ソ 蟆る摩蟄ヲ譬。  繧ォ繝シ繝代シ繝  荳榊虚逕」 蜿守寢  蝗幄。鈴% 繝ェ繝輔か繝シ繝  騾壻ソ。謨呵ご  繧ソ繧、繝、謖∬セシ縺ソOK  繧キ繧「繝ェ繧ケ 蜉ケ譫