夢に父がでてきた。嫌な夢だった。
乾いたアスファルトに、白いチョークで矢印が描かれている。カーブを描いて細い路地を指していた。その先、電柱の根本に、次の矢印が描かれている。
散歩の途中だった。朝、ひどく夢見が悪くて、悪夢というほど怖い思いをしたわけではなかったけれど、気詰まりしていた。家に閉じこもっているとよけいに鬱々とするようで、軽い服装のままサンダルをつっかけ外にでた。気温は低いけれど、湿度が高くて、歩いていると背中が軽く汗ばんでくる。
惹かれるままに足を矢印のほうへ向けた。なんだろう、こんな細道をマラソンランナーが走るわけないし。道案内なら地図を渡すだろうし、子供の落書きだろうか。
電柱脇の角を曲がると、砂場とスベリ台しかない小さな児童公園だった。車よけのコンクリート塊のそばに、次の矢印があった。
携帯電話のコール音。耳にあてると、父の声が聞こえた。くぐもった、聞き取りにくい声。
「なあに?」
苛立ちを、うまく隠せなかった気がする。押し殺すように小さく息を吐いた。
(声が近いな)
不意に気付いた。この矢印は。
(近くにいるのか)
この矢印は、父の家の方向だ。父と母がかつて住んでいた家。母が亡くなり、今は父が一人で住む家。
「散歩してるの」
少し、間を空けて応えた。嘘をついてもしかたない。いい嘘も思いつかない。私は要領が悪い。
(そうか。散歩してるのか)
公園をでる。次の矢印が右へ、左右を塀に囲まれた迷路のような路地を指している。
(父さんな、子供の頃を思い出してたんだ)
私は要領が悪い。だから、遅れた。逃げるのが遅れた。家をでるのが遅れた。
(遠足のバスとか、列車な、窓際に座って、外を眺めるんだ。電線とかガードレールとか、歩く人のための白線のラインとかな、そういうのずっとみつめるんだ。隣の線路とか、排水の溝とか、ずっと続いてるやつな)
あの家に引っ越したのは私が小学四年生のときだった。大学に勤めていた父の都合だった。狭苦しい二階の和室、窓を開けても空気の淀みが消えなかった。鬱蒼とした雑木に包まれ暗く、板の間を歩くと足裏が濡れているように吸い付くのを感じた。
大学進学を機に県外に引っ越した兄は、結婚してからも同じ家に住もうとはしなかった。そして母が、死んだ。葬儀の席で母方の親族が兄をなじった。けれど、私は兄が父母を嫌っていたわけではないことを知っていた。幼い頃の記憶にある陽気だった母の面影は、あの家にはない。
(動いて見えるんだ。とまってるはずのものが、動いて見える。ひとつひとつは止まっていても、次々続くと動いて見えるんだ。電線も、ガードレールも、うねうね蛇みたいに踊り出してな。生命があるみたいに見える)
またひとつ、角を曲がる。まっすぐの矢印。路面が翳る。ブロック積みの塀が途切れ、黴びて黒ずんだ板塀へと続く。マジックで「不在」と書かれたガムテープが郵便受けの蓋を塞いでいる。
目がおかしくなったのだろうか。いくつもの黒い線が見える。宙に漂う何十本もの髪の毛のように細い線が、路地から玄関へと延びている。
(なあ、近くにいるんだろ?)
家の前、と私は応える。変色したセメントの壁。アルミ枠に曇り硝子の引き戸。飛び石を渡る。雑草が裸の足首をくすぐる。
(おいで)
母が寝かされていたのは台所だった。学校帰りの私がみつけたのはテーブルの下に倒れている母と、しゃがみこんでいる父だった。母の肩をつかみ、父はなにか呼びかけていた。意識を確認しているのだろうと思った。薄く白目を見開き頭をのけぞらせる母、指先がまだ痙攣していた。青白い首をぐるりと一周する桃色の痕。細い繊維を寄り合わせたような紐の痕。
(久し振りに顔を見たいな)
きゅるきゅると、ひずむような音をたてて引き戸を開ける。いま、玄関にいるの、私は応える。こもった熱を頬に感じる。何十本もの黒い線が揺れている。ゆらゆらと揺れながら奥の暗がりへと続いている。白いチョークの矢印が、あがりかまちに描かれていた。まっすぐ奥を指している。廊下の奥、襖の手前に、次の矢印があった。暗がりにそれはうっすらと光を放っているように見える。
(なあ、父さん思うんだ)
サンダルを脱ぐ。足裏に、冷たい感触。一歩、次の一歩。濡れているような感触。淀んだ空気が肌を圧迫する。
(電線も、ガードレールも、動く乗り物から見ていると生きているように見えた。乗り物が止まれば、電線もガードレールも当たり前のモノに戻った)
後になって気付いた。台所に鴨居はない。人間一人だけの体重を支えられるような、紐をかける場所がない。母が首を吊ることのできる場所がない。あのとき母はまだ生きていた。指先が震えていた。首を絞められた直後だった。それなら、母はどこで首を吊ったのだろう。
(人も、同じじゃないかな)
襖の引き手に指をかける。しっかり、力を込めて、引く。
障子がすべて閉ざされている。障子紙を通して差し込む柔らかい光が曖昧な陰と入り交じっている。脱ぎ散らかされた衣類、弁当やペットボトルのゴミが雑然と散らばっている。かすかに樟脳の匂いがした。真ん中に敷かれた布団、薄いタオルケットを顎先まで被って横たわる父。痩せた身体、薄い白髪頭、虚ろな目で天井をみつめている。
畳の上、私の足先から一歩先に、携帯電話が転がっていた。
(動いている人間からは、生きているように見えるのさ)
耳にあてた私の携帯と、同時に声がした。
(止まれば、そうじゃない。電車が、バスが、止まろうとするとき、ゆっくりスピードを落としていくとき、そのときになってやっと本当の姿が見えるのさ。ゆっくりゆっくり、さあ止まるぞっていうときになって、やっっと本当の姿が見えるのさ。ゆっくりゆっくり、さあ止まる)
腰を屈める。父の携帯を拾い上げる。通話を切る。手にとったそれをしばらく眺め、畳の上に投げ落とす。
「父さん」
大学進学を機に一人暮らしをしたいという私を、父はとめなかった。母の死から表情を失っていった父が、あのときだけ苦しそうに顔を歪めた。あれは父を置き去りにする娘の冷たさに対する感情だったのか、それとも。
膝を畳につけ、タオルケット越しに肩を揺さぶる。父は、一心に宙の一点をみつめている。なにかがそこにあるかのように、じっとみつめている。
「しっかりして。お願い、起きて」
手の平に、奇妙な感触がした。父の肩をつかんでいるはずの手。なにかがうごめく感触。
「父さん、早く……なにを見てるの?」
肩を揺らす振動で、タオルケットがずれた。
あらわになった寝間着の襟から、首筋へと、黒い線の先端が這いでてくる。昆虫の触覚のように、衰えた肌を探り、続けて別の線が次々と群がってくる。
父の首が、こちらを向いた。まばたきしない眼。私ではなく、私のずっと背後をみつめる眼。死へ近付いていく者の視線。ゆっくりスピードを落としていく視線。
(なにも)
かすかに、唇が動いた。ささやき。
(なにもみえない)
タオルケットの端をつかみ、一気に剥ぐ。次の瞬間、爆発するように黒い線が膨れ上がり天井まで届いた。弓のように反る父の身体が、何百本もの黒い線に引き絞られた父の身体全体が赤黒く変色し、弾けた。飛び散る血肉が布団を、私の衣服を、手足と頬を汚した。
群れ暴れる黒い線の乱舞をみつめながら、私は畳の上を後ずさる。引きちぎれた父の首が布団から畳の上へと転がった。雲が通ったのだろうか、障子紙の陽光が呼吸するように翳った。
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